あきらめ

今の家に住み始めてから、自分の部屋の「模様替え」があんまりできなくなった。

というのも、二段になっている押し入れの戸を外して、椅子を置き、大きな机のように使っているからである。机の位置が絶対にそこから動かない。

あと三つの壁は、窓、窓、引き戸、の四畳半である。そもそも家具を置く場所がない。そんな模様替えのしようがない部屋で行われる小さな気分転換は、机の上に置いているこれもまた小さい本棚の中身を少し変えるとか、ものの配置レベルでしかできない。週末に、一生懸命机を一人で動かしたりしていた実家時代がなつかしい。あの時も壁は少なかったけれど、机は壁から自立していたので、中途半端な場所に置いたりいろいろ楽しんでいた。

今日は、本を読んだり、音楽を聴いたり、下手なりに楽しく楽器をいじったり、夕方すこし涼しくなってきた頃に、八百屋やスーパーやホームセンターを何軒もハシゴして買いたいものを美味しく安く買うという本気な買物をしたりした。同じところにしばらく住んで、自転車でいろいろ巡っていると、チャリ圏内のスーパーの、得意分野とか置いている品の感じがなんとなく掴めてくる。

八百屋が開いている時間に買物に出れることがあまりないので、少し遠いけれど、のぞいてみようと思って自転車で向かった。おばちゃんが、ショウガをほんのちいさなカタマリで買いたいわたしの要望をくんで、ちいさく折って買わせてくれて、とても嬉しかった。ちゃんと聞こえる声でお礼を言った。店に並んだ野菜たちは、みんな美味しそうで、過剰な量は置いていなくて、いい印象だった。ただ、産地が茨城とか福島とか近所の野菜は、美味しそうだし安いんだけど、なんとなくわたしは「放射能を気にする」というポーズをとってしまって、気持ちよく買えなかった。外国産の農薬まみれのほうがいっそ安心みたいな気分が、正直ずっとある。三年住んで、なんの実感もないのに、中途半端な知識とか噂だけで、いまだに暗い気持ちになる。近い将来、もうちょっと気にしなくてもよさそうな場所へ引っ越したいと、ちょっと思ってしまった。ほんと、気分の問題でしかない。基準とか、全然クリアに線引きしていないし、わたしはずっと諦めている。

買物をすませ、お気に入りの自転車で颯爽と帰る途中、坂の上でふっと西の空を見た。真っ赤に染まっていた。そばに停めてある車のボンネットやフロントガラスもピンク色になっていた。きれいだった。朝焼けと夕焼けは一日のなかで一番光が中途半端な一瞬だ。美しい中途半端にはドキドキする。空を見る時は、いつもよりちょっと遠くまで見るから、世界が広く感じる気がする。

こういう日には、どうしても、懐かしいこととか、過去のことを思い出してぼうっとしたりしてしまう。孤独がきゅっとなって、今いない人のことをアタマの中に連れてきたりする。同じものを見たり食べたり聴いたりした記憶がちゃんとまだ残っていて、人間としてはどこかできっと生きていて、まあでも限りなく揺るぎなく、それは記憶と想像でしかないので、諦めも強くたちこめている。やっぱり諦めている。