命を相手にする

最近はじめたバイトで、石畳の隙間から生えている草をほじくっていたら、二センチくらいの芋虫が出てきた。他にも、何匹か、クルっと丸まった白いやつは出てきたけどそういうのはじっとしていた。二センチくらいのそいつは、白くもなく丸まってもなく、けっこう元気にモゾモゾ動き出した。わたしは、そいつがどこへ行くのか見守りつつ作業を続行する。芋虫は草のあいだをかきわけて、排水口のほうへ行った。上手に格子状の鉄のフタを歩いていくのかと思いきや、一瞬だけ目を離したすきに消えていた。少し探したけど、いない。多分、ツルッと滑って、排水口へ落ちたのだと思う。アッサリしすぎていて、ちょっと唖然とした。

わたしの手によって地表に出してしまった時点で、その責任として、土の多いところに避難させてやるべきだったのではないかとか、ちょっと罪悪感みたいな気持ちがよぎったけど、いまさらどうしようもない。すぐにまた作業に戻った。

同じような作業を、少し場所を変えて続けているところへ、今度は小学生のガキンチョ2人組が現れた。なんて言っているのか全然わからないのだが、彼らはわたしの目を見て叫ぶ。え?と何回か聞き返したら、「なにやってんの?」とハッキリ言ってきた。さっきまでの意味不明な叫びが何だったのか気になりつつ、「いらない草をとってる」と答えた。すると小学生2人組は、「いらない草だって!」と言いながらどこかへ走っていった。

自分で言ってから、「いらない草」ってなんだ、と思ってしまった。いらない命なんてないのに。今ここには「優先すべきもの」があって、それは「いらなくない草」つまり庭の景観や仕事の指示なんだけど、そういうのに従った場合にのみ、こいつは「いらない草」なのだ。まだ全然詳しくないけれど、雑草にも名前があって、めちゃくちゃ生命力にあふれて、手入れに手を焼くくらい力強く生えている。方角や日当りなんかの条件にしたがって顔ぶれも変わる。その気で生きているのだ。そういうことを考えたら、勝手にちょっと落ち込んでしまった。でもやっぱり作業は続ける。

とにかく、いろんなものがいた。虫もいろんなのが居るし、草もいろんなのがいるし、風も吹くし陽射しもある。大きなマンションの庭とか植木なんていう人工的な場所だけど、ちゃんと好き勝手な生き物たちがひしめいていた。

どうもそういうことを忘れがちなのだ。前のバイトは飲食店で、相手にするものが人間くらいだったので、たまに皿洗いをやると、水とか残飯を相手にこっそり遊んだりしていた。コラーゲンのカタマリを流しに投げつけてバウンドさせたり、水の温度を変えて役割を変える感じとか、普段はできないからと残飯のソーセージを握りつぶしたりして、けっこう楽しんでいた。そういう余裕があった。接客の時は、お客さんの顔色をうかがうのが仕事みたいなもんなので、人外のコミュニケーションとかは当然なくて、ちょっと窮屈だったし、自分が人間であることは、前提すぎて、意識しなかった。

好き勝手な生き物たちがそのへんにいると、自分も好き勝手な生き物のうちの一人だってことが思い出されて、不思議と、人が愛しくなるのだった。誰かが死んだ時に、わたしは「こちら側に残された我々」っていう仲間意識を勝手に全人類に対して想像してしまうんだけど、ああいう感じ。コミュニケーションのとれないなにか、を想定したら、コミュニケーションがとれる相手に対する愛とか希望がヒシヒシ押し寄せて、なんかもう感動しちゃうみたいな。久しぶりに家族に愛してるって言いたくなるみたいな。

人間が生きているのが全然当たり前じゃないっていうめちゃくちゃ普遍的なこと、やっぱり大事だ。

それが、他の生き物たちが居てくれているおかげで実感できるなら、他の生き物ともちゃんと、付き合っていかないといけない。生きるために行われる毎日の食事だって、だいたいは生き物でできているんだし。

それこそ小学生の頃に、言葉にして教えられたようなことが、大人になった今、あらためて心でわかった。

自分のリアルな素材は、畑や海から出てくる生き物じゃなくて、スーパーマーケットでビニールにパックされた生き物たちで、それはもうどうしようもないことなんだけど、想像力があってよかった。知識があってよかった。土から出てくる野菜と、ビニールにパックされていてお金があればすぐに手に入る野菜は、本当は同じものなんだっていう想像力と知識。それが抜け落ちてしまったら、自分だって、排水口へ一瞬で落ちたりするような、ちっちゃい命だってことも忘れそうだ。