パチパチしちゃう日々のなかで

先日書いた、実感を持って想像できる範囲と、妄想的な壮大な想像力が必要になる範囲のバランスのことが引き続き気になる。

(そもそも、実感って言葉自体がかなりあやふやで、どうにかしないといけない感じはしている。)

現代は、身体的な体験のバリエーションが多い。たとえば足で走るよりもはるかに速いオートバイの体感というのが、人類にとって最新の体験のひとつとしてある。足で走るのとは違う体験だけど、スピード感とか風をきるという想像力には直結する。

電話とかメールみたいなものでのコミュニケーションなんかもたぶん最新の体験だと思う。そういったもので身体が拡張されたみたいな話になるのかもしれないけど、逆にもっともっと最新の体験となると、身体が不在になる。拡張されすぎて延びてペラペラになってしまうみたいなイメージ。

SNS上にはたとえばタイムラインって考え方があって、そこに乗る、という体験。ここに体はない。あるいは、並行して別のアカウントでTwitterを管理する、という体験。ここでも、体はほとんどない。漢字の字面の生々しさと合ってない気がする。少し動く指や目と、目盛りみたいになったボソボソの時間がある。

でも、たとえば、同じタイムラインにいつもいるあの人、とか、このアカウントの時に仲良くしているあいつら、みたいな、現実と別の場所でさらに分裂した世界がどんどん豊かになっていく。

そういう体験のリアリティって、時間に重きを置いている気がする。物理的な場所とか距離よりも、ボソボソの、目盛りでしかない時間。簡単に自動的に蓄積される時間。

時給のバイトを細かいシフトでやっていた時の、時間の切り売り感がすごく嫌だった。ほんの4時間働いて、その行きと帰りの電車に乗っている時、これは自分の時間のはずなのに、電車に往復1時間も乗っている、この1時間を自分の時間として全うしないともったいない、みたいな焦りがあった。タイムカードを00分までに押さないと時給の発生が15分からになってしまうのに今は58分、間に合うために走る、とか、そんな細かいことに翻弄されていた。

個人の生活スタイルによるとか言ってられないレベルで時間は問題だ。何時に待ち合わせね、なんて可愛い約束が有効な世界を全否定するつもりは全然ないけど、ヒントは多分このへんにあるんじゃないかと思う。

どこにでも履歴が残って、何秒前にこのコメントがついたみたいなことがパチパチ起きている毎日で、人間の体は少しもパチパチしていないのに、パチパチしている気がしてくる。ロボットみたいに。消費期限の切れるより前の、決められた時間にいっせいに「廃棄」に化けるコンビニのオニギリたちとか、誕生日の0時に何が変わるでもないのにおめでとうってメッセージ送るみたいな、嘘な感じ。暦や時間を発明した人は偉大だと思うけど、季節は巡っても時間は巡らないのに、なんだか勘違いみたいなことになってないか。

そういう偽のパチパチと、本当のパチパチを両方同時に体感している実感があるからこそできる、壮大な妄想的想像をしてみたら、どんな世界が見えるのかな。

わたしは、料理をしたり洗濯をしたりしていて、本当の自分よりも6つくらい歳をとった自分のふりをすることがよくある。誰もいない家で一人でやっている家事はたいてい、6つくらい歳をとったつもりで、彼氏もいない設定だったりしながらやっている。お出かけでオフィス街を歩く時とかも、働いてる人のふりをしたりする。特に意味はなくて、いつのまにかちょっと楽しくてやっている。

本当の自分なんてものはないんだけど、でも確実に今の自分ではない自分のふりをしているその時は、比較的、迷いなく体が動く。あの感じは、並行世界の自分、螺旋の三段先を進んでいる時間を演じる自分を見ているみたいで、中途半端に他人事だ。

それくらい気を抜かないと家事ができないのも考えものなんだけど、あれはパチパチと関係があるような気がする。

パチパチなしで生きていくのは、今となっては難しいのかもしれない。それならパチパチなりの実感を丁寧に追いかけて、そこから壮大に旅立つことを考えたい。んー、いつもの話だね。