実感の感想


横浜STスポットにて、「となり街の知らない踊り子」を観てきた。
スゴカッタ。山本さんも北尾さんも作品は初めて観たのだけど、隅々まで行き渡っている感じに圧倒された。

映画を観るときにも、演劇を観る時にも、わたしは、いま役者の体だったり作品で描かれている人物の体で起きていることを自分自身の体で想像しがちだ。似た体験をしたことがあったりしてうまく想像できる時と、過去の実感よりも想像が勝つ時と両方あって、どちらが良い悪いもないのだけど、今回はそのバランスが絶妙だった。実感のある想像と、実感のない妄想のバランスがギリギリで、一番つたわって新鮮さも保てる配合で景色をひろげてくれて、ほんとに見事だった。
あとは、ダンサーがほんとうに凄かった。動きのボキャブラリーがハンパなくあって、一人で90分の舞台を10人以上の役を演じきるのに、全然無理も無駄もなかった。
途中で、セリフもなくなってただ踊るようなシーンがあって、ああいう、言語とかロジカルな理解とか超えたパワーみたいなものをしっかり見せてくれるところも、他が緻密なだけにグッときた。ちょっと距離ができて、かえって気持ちいいというか。今までの言語を咀嚼する時間をいただいてるような。歌を歌っている人と、踊りを踊っている人って、わりと似た現象をその場に起こしているんじゃないかと思った。歌詞がない歌なら、踊りみたいに機能するのかもしれない。

昼に、ちょっとふらりと観に行った展示が、よくわからなくて、あーあと思っていたのだけど、帰り道でたまたま入った古本屋さんで、本に出会った。とても分厚い、長田弘の「詩と時代 1961-1972」という本。詩の批評とかが載っている。冒頭30ページくらい読んで、詩って表現が実は一番やばいんじゃないかと思っていた予感が当たっていたことがわかった。詩、ビッグな相手すぎて、手に負える気がしない。でもおもしろい。じっくり読もうと思うけど、とりあえず今のところとても面白いです。アツい。
その本を買うときにレジに持っていったら、店のおじいさんが「この人、今日亡くなったんですってね」と言っていて、わたしはそもそも長田弘さんについて殆ど知らないので、「あ、そうなんですか」としか言えなかった。あとで調べたら、亡くなったのは数日前だけど、ニュースは今日報道されたようだった。
先日、清澄白河で飴屋さんがやっていた舞台を見たときに、原作が小説ってこともあるのかもしれないけど、印象がけっこう詩で、だけど構造があれば観れるし読み取れるということが確信されて、こういう方向性の可能性あるな!とか思っていたし、先日発表した作品も詩にかなり傾いていたので、詩の本に出会うタイミングとしてはベストな気がしている。出会った感がある。


横浜から、友人の車にのせてもらって、夜の高速道路とか、国道とかをグイグイ走っていて、車がけっこうガタガタするやつだったからかもしれないけど、地に足つくことについて考えていた。
電車に乗っていて、地に足つこうとするとけっこう想像力を働かせないといけなくて、あれがけっこう気持ち悪い。だから車の方が体の感覚としては比較的、理解におよぶ。今日は、最近自転車で浅草から茨城まで走ったときに通った道を、基本的になぞって車は進んでいて、走ったことのある道だから、実感のある想像ができた。実感の有無が、その経験の善し悪しと直結する訳ではないんだけど、ああいう演劇作品を観たあとだと、自分でこぐ自転車で通る時と、人が運転してくれる車で通る時の景色の差がけっこう顕著で、気になった。
言葉も、多分、実感のある、過去に経験したことからしか出せなくて、想像力とか創造力はそれを拡張したり展開したりするような使い方が限界なのだろう。きっとゼロからは出せない。とても普通のことなんだけど、今日はそれが響いた。要するに自分の感度をあげて生活しないと、実感値がゼロになってしまって想像も創造もしようがなくなるのだ。結局は生活だ。明日も朝から、生活だ。