夜が明けても続くもの

 
3月9日の土曜日の晩、ワヤンクリを観た。ソロの芸大でダラン(ワヤンクリの人形使い)の勉強をしている岸さんという女性に案内をしていただいて(岸さんが招待されていたのに便乗させていただいた形)、結婚式にあわせての、山で行われる上演を観にいった。彼女とは少し前に知り合ってから、ワヤンクリの上演の情報をいただいたり時々一緒に見たりしている。年が明けてからわたしがほとんど毎週のようにワヤンを観に行けていたのは彼女の情報提供や案内によるところがとても大きい。本当にありがとうございます。
 
この日は、岸さんが住んでいるコス(シェアハウスのような小規模の集合住宅。大学生や単身で働きに来ている人などがしばしば住む)に一度お邪魔して、そこから仲間と一緒に車で出発するということになっていた。わたしの家からだとバスを使って計3時間弱くらいのところにある街・ソロは、観光地としても有名でけっこうな都会だけれど、そのコスは大通りから少し入った、静かで落ち着いた雰囲気の場所にあった。
 
着いてすぐ、台所に続くとても広い部屋に案内してもらった。そこには、ワヤンクリのスクリーンやガムランや、その他の太鼓や弦の楽器が置かれていた。びっくりして、つい「わあ〜」と声が出た。これらは、岸さん個人のものではなくて、このコスのオーナーの所有物らしい。ここには他にも彼女と同じようにガムランやダランのことを学んでいる留学生が住んでいて、この楽器や道具は彼らと共有で使って、練習をしているそうだ。彼女は、いつでも練習ができて幸せですと言っていた。文字通り寝ても起きてもワヤン漬けだ。すごい。修行だ。向かう方向や熱量が似ていたり同じくらいだったりする仲間がいつもそばにいるというのも、すごく心強そうで良い。
 
出発までの少しの時間、岸さんが自分の私物のワヤンを見せてくれた。ワヤン専用の鞄(大きくて平べったい、カルトンバッグみたいなもの)というのがあって、それに入っていた。自由に見てください、と言って鞄を広げてくれた。岸さんはすぐ出発の支度にとりかかったので、わたしは1人でワヤンと対峙することになった。数を数えたけど忘れてしまった、たぶん10体くらいあったと思う。自分で買ったり、先生からもらったりして集まったものたちらしい。授業で使う予定のワヤンが手元にない時には、買えれば買うけど、大きさが同じくらいのものを代用して練習したりもすると言っていた。
わたしは、ワヤンを近くで見たことは今までにも一応あったけど、リラックスして触りながら見れたのは初めてで、嬉しかった。服の模様が、ほとんど網のような、かなり細かい透かし彫りになっているものを手にとったら、向こうの壁とかドアが透けて見えて、1人で「うおお〜」と小さく感嘆しながらウキウキ写真を撮ったりした。こんなに精緻な透かし彫りで、繊細なふうに見えるけど、あんなに振り回したり叩いたりしてんだよなあ皮は丈夫だなあ、とか、ただでさえそれ単体で見応えのある人形をさらにパフォーマンスで使うってそりゃ表現として強いよなあと嬉しく納得したりした。人形を支える骨の折れたところが直してあったのにも、今まで人形が使われてきた年月を感じた。
 
 
今晩ワヤンクリを観にいく一行はけっこうな大所帯で、大きな車に7人乗って出発した。途中で、今回の上演に私たちを誘ってくださったマダムたちと合流して車は2台になった。シンガポールとかアメリカとかメキシコとか色々なところから集まった人たちが一緒になっていて、自分が「外国人一行」の一員になっているのが不思議な感じがした。ここへ来てからは、だいたいの場で私1人だけが外国人だったので、それとは居心地がだいぶ違った。みんなだいたい英語とインドネシア語ができるので、おしゃべりは英語になったりインドネシア語になったりを行き来していて、なかなか混乱した。お菓子を食べたり、お喋りしたり、飽きて全員黙ったりしながら、三時間くらい車は走って、上下にグニャグニャ左右にグニャグニャの山道を登って、真っ暗な木々の間を抜けて、ようやく、と思うころ、村にたどり着いた。今まで見た村でのワヤンクリと同じように、道の両側にビカビカの屋台が並んで、大人も子供も沢山いた。ここを抜けた先がワヤンの会場だ。
 
控え室で、今夜のダランであるMantebさんに挨拶をした。彼は、とても有名なダランだ。(相当有名な人らしい。音楽の先生は当然、ゲストハウスのオーナーも名前を知っていて、彼は名人だよねえと言っていた)わたしは正直に言ってあんまり今回の上演の細かい事情を知らないまま半ば強引について来てしまったし、インドネシア語も英語も皆ほど流暢ではないので、ちょっと小さくなってずっと半歩後ろから様子を見ていた。岸さん始め、ここへ来たガムランやダランを勉強している留学生たちは、Mantebさんのことを大変に尊敬している。それは一応知っていたけど、彼らの挨拶の感じとか、岸さんがずっとキラキラした笑顔で「嬉しい…」と興奮気味にしているのとかを見ていて、だんだん今夜の特別具合がわかってきた。
彼女にとってMantebさんは一番好きなダランらしい。というか、大尊敬する師匠なのだそうだ。留学に来る前から映像資料で彼の芸に触れて感動したり勉強したりしてきていて、今はソロの芸大で会うこともあるし名前も覚えてもらっていて、とても嬉しいと言っていた。みんなで写真を撮ろうという時も、一緒に写真をだなんて!と喜んでいて、岸さん、かわいいし、その喜びようや今までの会話から、彼女が歩んできた道を勝手に想像して、かっこいい人だなあ…と思った。あの頃は夢みたいな場所にいた人が今目の前にいる、というのは奇跡的なことだけど、ラッキーなんかではない。これは彼女が自分で積んできた頑張りの続きにある今なのだ、という感動があった。ざっと言うと、多分わたしは人の夢が叶う瞬間みたいな、そういうものを見たのだと思う。
Mantebさんは、とても気さくな感じでお話される方で、横で聞いているわたしでも聞き取れるようなきれいなインドネシア語を話してくださっていたことからしても、お人柄が想像できた。二箱ぶんがくっついたような巨大な箱からタバコを出して吸っていた。タフだ。5歳くらいだろうか、男の子の孫が懐いていた。
今日は、結婚を祝うワヤンクリだそうだけど、こうして結婚式にワヤンクリを呼ぶということは、今時かなり珍しい。とてもお金がかかるのだ。しかも超名人のMantebさんを呼ぶというのは、相当なことだと思われる。きちんとしたバティック(こちらではバティックが正装なのできちんとした格好をする時にはバティックの服を着る)を着てこなかったことを申し訳なく思った。何も考えずに無地の服で来てしまった、Tシャツで来なかっただけ良かったけど…。
 
挨拶を終えて、少し食事も頂いて、Mantebさんが伝統衣装に着替えるのも終わり、いよいよ始まるということで我々はステージのほうへ向かった。留学生である我々(わたしは違うけど)は、ステージの上のガムラン隊の隙間に座らせてもらった。1月にワヤンを見た時、突然「ステージに乗って良いいよ!」と言われた時はビビったが、(もちろん特別ではあるけれど)案外こういうこともアリなんだ、というのがわかってきた。生理中の女性はステージに登れない、という厳粛さはあったけれど、この晩もやはり、私が今まで見たワヤンクリと同様、リラックスした雰囲気だった。ワヤンクリの時、ガムランなどの演奏者が演奏の合間にものを食べたりタバコを吸ったりしているのは、わたしにとってはとても大きな魅力のひとつだ。舞台上での演奏や演技に、観客が不要な緊張を強いないのは健康的な気がする。スーパーマーケットでレジの人が座ってても良いみたいな世界観と通じると思っている。
 
 
ワヤンの上演中、わたしは留学生たちの少し後ろに座っていたので、岸さんや彼らが時々メモを取ったり、ICレコーダーを回していたり映像や写真を撮ったりしているのが見えた。時々、何か確認するように隣の仲間と短い会話をする。そういう熱心な姿を見ていると、ああ、勉強した上で観られたなら、入ってくる情報量が段違いだろうなあ、絶対100倍面白いだろ〜〜、と羨ましかった。そして、さっき岸さんがすごく嬉しそうにしていたことを知っているので、顔が見えなくても、今発揮されているであろう熱い集中が想像できた。誰かが何かに心の底から惹かれて本気で愛したり夢中になったりしている姿をはたから見る機会って、そんなにしょっちゅうない。あれは勇気をくれる背中だった。好いて学ぶというのは勇敢なのだと思った。
 
この日は英語の字幕がスクリーンに映されていた。そんなの初めて見たので、びっくりしてインドネシア人の友達に写真を送ったら「わたしも初めて見たwww」とウケていた。おそらくリアルタイムで誰かが打ち込んでいた。誰だか知らないけどめっちゃ凄い。わたしは最初は「これならお話がわかる!!」と喜び勇んで文字を追ったけれど、ジャワ語とガムランを聴きながら英語を読むのはなんだか変な感じがしたし、かなり速いしそもそも英語下手なので大変すぎて、なかなか内容が頭に入ってこず、途中で諦めた。文字を集中して読んでしまってワヤンも見えずガムランも歌も聴こえなくなるのは本末転倒だ…、と思って、頑張って追うのはやめた。それでも、チラチラ目に入る英文から今キャラクター同士がどういう会話をしているのかがざっくりでもわかるのは大変ありがたかった。
いつもは、打ち上げ花火を見るみたいな鑑賞しかできない。音を聴き、スクリーンや舞台上の景色を眺めながらボウっとしていて、ワッと演奏や演技が変わったりすると嬉しい!楽しい!という見方だ。話がわかっていないので、次に何が起きるのか全然予想できないけど、何が起きても楽しいのだ。こんな素朴すぎる観客でも十分楽しいんだからワヤンクリは凄い。この日も基本的にはそうだったけど、そこにちょっとだけ「今は結婚の話をしている、彼は彼女を愛している」などの情報が入ると、人形の表情まで想像できて、見え方が深くなって良かった。
 
 
わたしは基本的に、なにかの鑑賞に関して貧乏性というかガメツイので、観るなら全部観たい。演劇などを観に行ってつまらなかった時にも、耐えて座り続けてしまうし、できるだけ最初から最後まで観たい。映画のエンドロールが終わって明かりがつくまで立ち上がりたくない。そういう性格なので、この晩も、留学生たちは玄人なので力の抜き方を知っていて各自一度はトイレに立つのだけどそれが真似できず、朝まで一度もトイレに行かずに座り続けた。素人っぽいしダサいな…とちょっと思いながらも、やっぱり立ちたくなくて、時々座り方を変えたり、水分摂取をちょっと控えたりしながら過ごした。というか、もしかしたらこの滞在で最後のワヤンクリ鑑賞になるであろう晩だったこともあって、だんだん終わっちゃうのが悲しくなってきて、もっとずっとここにいたい、この晩は終わらなくていい、、と、夜が朝に近づくにつれてヒリヒリした気持ちになっていた。
 
だって、あまりにも良い心地だった。まず、過言でなく絶えず目から脳へ快感が流れ込んでくる。
この日に使われていたグヌンガン(山などを象った抽象的なワヤン)は、彩色があるのは片面だけで、もう片面はすべて金一色に塗られたものが使われていた。「全部金色なんて職人の手抜きでは?」という超失礼な気持ちが若干あったのだけど、金色のワヤンって、実は視覚的な快感がすごいのだとこの晩よくわかった。まず、金色ってあれ、色じゃないです。光だ。わたしは今、光を観ている!という快感がある。目が気持ちいいのだ(赤とか青とかの色も光といえば光なのでこれはバカ発言なのですが、でかくて金色というだけで気持ちよくて、俺は今!光を観ているぞ!と言いたくなる)。そして、普段は画面の左右の脇に固定されているそれら(木や山なので?基本動かない。物語の最初と最後、またはシーンが変わる時や登場人物が死んだ時などにフワフワと動き出す)が、ダランの手によってダイナミックにはためく段になると、透かし彫りの精緻な影が突如ユラユラッと画面をいっぱいにする。スクリーンにぴったり当てて固定されている時は影が出ないので全部がただただ金色で、透かし彫りはよく見えないのだが、スクリーンを離れて踊りだした途端、かなり大きな、そして美しく複雑な形の影が現れて、全然違う美しさを見せてくれるのだ。これはけっこうグッとくる。こういうギャップを狙って全面金色のやつを作っているのか!?!と勝手に納得した。さっき、岸さんの私物のワヤンを見せてもらった時に、透かし彫りスゴイ!と感動したばかりだったので、余計に嬉しかった。始まる前、会場に並んだワヤンを観た時だったか、岸さんが「Mantebさんの私物の上等なワヤンばかり並んでいる…、凄い…」とため息をつくようにおっしゃっていたので、目に快感が流れ込み続けていたのも頷ける。良いワヤンはやっぱり良いし、名人がそこにさらに魔法をかけているんだろう……
 
もちろん、目だけではなくて耳も気持ちいい。演奏それ自体も、だんだん聴き慣れてきて曲を聴いている感じで聴けるようになってきていたし、好きなアンサンブルになるとついニヤニヤしたり(Rebabの音が好き)、力一杯ガムランを叩いてウワーッと演奏が加速する時にも「そんな全力で叩くか!」と心の中でツッコミながらニヤニヤしていた。合唱みたいに歌がたくさん重なる時も嬉しくなってしまう。つまりずっとニヤニヤしている。そして、大きなうねりを鋭く刺すようなシンデン(女性歌手)の歌声にギューッと興奮する。
演奏の静かになった時に、すぐ隣の暗い木々のほうから虫の声がたくさん聞こえてくるのにもかなり感動した。最初それを認識した時、嬉しくて、ちょっと泣きそうになった。演奏ではなく環境音が耳に入ると、自分がここに座って、今まさにここで鳴っている音を聴いているんだという事実がひしひしと実感される。どこだよここ、というくらいの、始めてくる遠い場所の山の中で(※グヌンキドゥルなのでここはジョグジャカルタ)、夢みたいな時間だけど、でも確かに座ってんだ物理的に今ここに、と、思う。それが嬉しかった。
今日まで生きてきて今晩はここに在るこの体で、観て聴いている、異国のこの場所で、こんな夢とか魔法みたいな時間を過ごしている、という事実が、特別すぎる現実が、染み込むみたいに心にくるのだ。生きているのが嬉しかった。足は痺れるし、タバコの煙は臭かった。
 
 
 
 
 
さすがに一晩山の上かつ屋外で過ごすのは寒いだろうと思い上着を持ってきていたけど、それほど冷えず、むしろ途中で暑くなってきて脱いだくらいだった。過ごしやすくてよかった。
 
朝4時前くらいに演奏は終わり、素早く撤収作業が始まった。私たちはまたしても軽い食事をいただいてしまった。本当にありがとうございます…でも、一晩じゅうなんとなくイモやお菓子をつまんでいたのでお腹は空いていなくて、むしろ体は疲れて重く、ほんのちょっとだけ食べるにとどめた。他の留学生たちがモリモリ食べていてタフだなと思った。
 
チャーターしている車の到着を待つあいだ、村の道を、みんなで少し歩いた。来た時にはあんなに沢山あったビカビカの屋台が全部すっかり片付いて、違う場所のように静かだった。岸さんたちと「さっき車で通ったのはこんな道だったんだ…」などと話しながら、きつい坂を、疲れた体に鞭打って登った。まだまだ暗いので、足元に気をつけながら歩くのだけど、星がちょっと見えるので、上にも気を取られながら歩いた。そうやってフラフラともう少し進むと、左手にトウモロコシの畑があった。
 
トウモロコシ畑の向こうは空だった。山の上で景色が開けているから、見上げなくても空が見えるのだ。すごい。見上げずに星を見たのは初めてかもしれない。むしろちょっと見下ろすくらいの感じだ。星座の名前はわからないけど、細かい星が、色の違いとか大きさの違いとかまでよく見えた。ここにくる前にメガネを作り直して本当に良かったと思った。虫の声がたくさん聴こえる。色々なのが鳴いている。皆そこでしばらく車を待つようだったので、わたしはもう少し先へ道を歩いて、ちょっと怖かったけど街灯のない真っ暗なほうまで行ってみた。木々が茂っていたので星は隠れてしまったけど、レコーダーを手に持って虫の声を録音した。静かに息をしながら、真っ暗な木々の合間を眺めたりした。手前の木々のほうが真っ黒で、その向こうの空の方がぼんやり明るい。小雨が降り始めていた。遠くで何度かニワトリが鳴いた。
 
 
 
 
車に乗ってから少しした頃、日が昇って来た。でもピカピカの日の出ではなくて、雲が滲みながら色を変えていくような空だった。さっきまで星を見ていたのに、天気がどんどん変わる。ソロへ戻る道のりは、来る時よりもだいぶ速かった。寝て起きたらもうソロの市街にはいっていて、眠い頭のまま「このままバスターミナルから直接帰ります」と岸さんと仲間たちに伝え、ターミナルまでちょっと遠回りになったりしながら送ってもらった。ちょっとくらい自分で歩けばよかったのだけど、若干お腹が痛くて体も重かったので甘えてしまった。いたバスにすぐ乗って帰った。
 
 
バスを降りると、もう日が高かった。眩しいし暑いし体が重い。排気ガスにむせそうになる。車の音が煩い。あまりにもさっきまでと空気感が違って、雑雑とした日常に帰ってきたことが無性に情けなく思えて、誰も何も悪くないのにちょっと不愉快な顔になった。マスクと帽子で隠しつつ、ひどい顔のまま早足で歩いた。
途中でコンビニに寄って、グァバのジュースとポカリを買って帰った。寝不足の時は固形物は食べずにしばらく内臓を休めると疲れを持ち越さない気がしているので、この日はほとんど何も食べなかった。
 
 
わたしは、楽しかったことの後に体がグッタリしている状態って証拠っぽくて、信用できると思っている。これは誰かに提出するための証拠ではなくて、自分が、自分自身のさっきまでの体験をより深く自分のものとして体に刻んで覚えておくためのヒントだ。今の自分にとって、さっきまでの自分は、油断するとすぐに他人みたいになってしまうし、楽しかった時間ほど嘘みたいに思えてきてしまうので、さっきまでの自分と疲れている今の自分がつながっていると思うために、疲れる体は一役買ってくれる。疲れてんだからホントだろ、と思える。
 
疲れると一時的に憂鬱になったり不機嫌になったりするから、疲れること自体は全然好きではない。でも、疲れは体験の余韻であり証拠だから、本当に楽しかった日は、そこまでを「楽しかったこと」に含めてしまいたい。夢みたいに楽しかった時間も、それに起因する疲労をちゃんと味わうことで、確かな現実として噛み締められる気がする。
 
 
もうあと1週間くらいでインドネシアを去るのだけど、帰国した時に、朝の羽田空港で味わう疲れを想像してみる。寝たら取れるような疲れにそんなに多くのことを託せないし、疲れるためにやってるんじゃないけど。お腹を壊したりしていなければ、きっと爽やかだろうな。というか、なるべく爽やかに帰りたいので、ここからは輪をかけて体調管理に全力を投入していきます。




 
 

夜に息をしている

 
もうだいぶ前になるが、ジョグジャカルタにあるワヤンクリ博物館に行った。さすがに何度もワヤンクリを観ていると、「あの時のあれか!!」というのがたくさんあった。物がただ置いてあるだけで何の解説もなかった(追加料金でガイドを頼む仕組み)ソロの王宮博物館とは違って、一応英語とインドネシア語のキャプションもあったので、小さい博物館だったけれど時間をかけて楽しく見て回った。連れて来てくれたインドネシア人の友人は、わたしが度々ジャワの魔術の名前とか女神の名前を出して「アレのコレですね?!」と言うので「なんでそんなの知ってるんだw」と笑っていた。今わたし「変なガイコクジン」みたいな感じなんだろうな〜と思った。
 
そのワヤンクリ博物館で、色々な「ワヤン・なんとか」を紹介しているコーナーがあり(ここにあったような伝統的なもの以外も含めれば「ワヤン・なんとか」はほぼ無限にありそうだ。ゴミで作ったワヤンで上演をするワヤン・サンパとかもやってる人がいる)そこに、ワヤン・カンチルというものの展示があった。
ここへ来る直前に「今度ワヤン・カンチルがあるけど観に行く?友達がダラン(人形使い)やるんだ」とAndriさんから聞いて、よく知らないまま「行く」と即答していたので、あ!これが!今度観るアレね!と、思えて嬉しかった。情報を得るタイミングがベストだった。
ワヤン・カンチルは、通常のワヤンクリと違って登場するキャラクターがみんな動物である。主人公は子供のシカで、ストーリーも子供向けのものがかかる。博物館の展示には、シカとカブトムシ?とワニとトラと、他にも色々いたけど、木もいた。日本の学芸会にも時々「木の役」があるよ、同じだね、ガハハ、と友人と笑ったりした。物語は、だいたい、賢いシカがトンチで困難を切り抜けていく、みたいなものらしい。一休さんみたいな感じだろう。でも、学校の先生やゲストハウスのオーナーに「今度ワヤン・カンチルを観に行くよ」と自慢しても「何それ?初めて聞いたけど」と全員に言われたので、けっこうマイナーなのだと思われる。
 
 
 
 
そのワヤン・カンチルは土曜だった。さすがに子供向けの演目を、通常のワヤンクリのように朝までやるわけはないだろうと思いつつ、けっこうしっかり昼寝をして万全のコンディションで夕方ごろに家を出た。
上演の情報をくれたAndriさんに連れて行ってもらうことになっていたので、Andriさんの住んでいる隣町までバスに乗った。家を出た時から向こうの空に黒い雲があって、わたしがバスターミナルに着いたとたん物凄い豪雨になった。肌寒いくらいだったけど、バスに乗っているうちに雨は弱くなり、降りる頃には小雨に変わった。
ほどなくしてAndriさんと合流して、出発した。今日の会場は、グーグルマップで見ると市街からけっこう離れたところにある。さては「desa(村)」だな、と思った。村で行われるワヤンのイベントには、以前もAndriさんに教えてもらって行ったことがあったけど、木々や田んぼに囲まれた夜の村に行く、ということがもうすでに楽しいので、嬉しい。
 
 
出発した頃には小雨だったけれど、それもどんどん弱くなって、いつのまにか日がすっかり暮れ落ちて雨はやみ、わたしたちは田舎の道を進んでいた。
雨が上がったばかりの、まだ霧雨がふんわり続いているような湿った空気にはなんとなくコクがあって、東南アジアにいるのだ、と思い出さされるが、標高が高いので全然暑くない。長袖のシャツにレインウェアを羽織ってちょっと寒いくらいだ。
 
この道すがら、ついに心の底から確信したけど、わたしはこの土地の夜のことがとても好きだ。
 
ここの夜は、東京や千葉の夜と違って、人間ではない動物や植物や、魔術や魔物が優勢の時間、という感じがする。
夜空の手前、ここからは遠い向こうのほうには、山や、背の高いヤシの木が真っ黒な影になって黙って並んでいる。自分たちの行く道沿いの木々は、その大きな葉っぱの裏側や樹皮を、ヘッドライトによって下から照らされて、カメラのフラッシュをたいてピントが合っているみたいな質感でハッキリと見える。でもそれは今この瞬間に照らされているだけ、といった感じで、その葉っぱや樹皮のすぐ裏側はもう真っ暗闇なのだ、という凄みを含んでいる。とにかく葉っぱが巨大なので、葉っぱと自分の距離が近いような錯覚すらする。それらに視線を吸われてつられて睫毛がのびるような目つきになる。
 
目的の村に入る直前、だだっぴろい田んぼのあぜ道を抜ける、1分もないくらいの時間があった。
こんなに暗い夜でも、空というのは真っ黒にはならない。手前の山や森のほうがずっと黒い。遠くで雷が光っているのが見える。ガタガタの道を運転しながらAndriさんが「Sawah sawahだね(田園が広がっているね的ニュアンス)」と言ったので、わたしは「sawah sawah…」とオウム返ししながら、ああ、sawahって二回言う表現もあるんだ、「ざわわ」みたいだなあ、と思った。あれはさとうきび畑だけど…
ちょっとその場に止まって味わいたいくらい、「sawah」という言葉のシックリくる具合が嬉しかった。だいぶ前に、美しい山と田んぼの景色を前に「indah(美しい)」が言えた時のことを思い出していた。広くて遠い景色には、語尾のため息のような「h」がやっぱり似合うと思った。
 
 
迷ったわけではないけど、目印がゼロなので途中で何度も村の人に道を尋ね、本当にワヤンやってるのか?と思い始めたくらいの頃に、ようやく会場にたどり着いた。村の集会所だろう、屋根と床と柱だけでできた(プンドポみたいな)建物に、暗幕で壁を作ってあった。テントのようになっていて、みんな靴を脱いであがり、床に座って見るスタイルだった。ワヤンは椅子じゃなくて床に座って見るのが多分、本来の形式だよなあ、と思っていたので、床だ!!!!!!!!と嬉しくなった。
 
この日の演目は、基本は影絵人形を使ったワヤン・カンチルだったけど、たまにワヤン・オラン(人間がやる演劇)に切り替わったりまた人形劇に戻ったりしながら進んだ。シカが…なんか大変そうだな…、ということ以上のストーリーはわからなかったけど、スクリーンのこちらと向こうでシカとワニが会話をしたり、途中でダランの他の2人の俳優も一緒にスクリーンの前に出て来て踊ったりしていて、けっこう楽しかった。人間が演じる劇を久しぶりに見た。俳優たちが顔をまだらに白く塗っていて体の使い方もコミカルだったので、人間がやっているけど人形劇っぽさがあって、愛しかった。演劇やダンスの上演は、その作品以前に、生きている人間を穴があくほど観つめても良い、という珍しい時間でもある。人間を見つめるのは面白いので、上演の時にはわたしはここぞとばかりに穴があくほど見つめてしまいがちなのだけど、それが許されるような観劇の機会を得たのは、そういえば久しぶりだった。大阪の民俗学博物館で様々な民族衣装を見た後にインドネシアに行き、あそこで観たような衣装を実際に人が着て踊っているのを観て「ああ!中身が!ある!」と感動したのは一昨年のことだ。そう、ここは「現地」…。
 
そして、何より、この上演では、ダランがすごく魅力的だった。彼はかなり小柄(頭が大人の腰の高さくらい)で、顔も丸くて声もハスキーな少年のようだった。小学生みたいな容姿(というかわたしはずーーっとメチャクチャすごい子役なのだと思っていたけど、終わった後に他の人に彼の年齢を聞いたら20歳と言っていた。ソロの芸大で勉強をしたという。)も端的に言って可愛かったし、泣いたり笑ったりする彼の姿や声にずっと気持ちを掴まれていた。時々客席に向かって「そうだろ?」みたいにふって、子供や大人からウェーイとレスポンスをもらったりしていた。スターだな〜と思った。観ていて気持ちが良かった。
 
客の多くは子供だったので、上演中も騒がしくて時々セリフが聞こえないくらいだったけど、リラックスした雰囲気は地元っぽくていい感じだった。大人は後ろの方に少しいる程度だった。ワヤン・カンチルの前に、地元の小学生たちが出演する短い自主制作映画と、彼らによるちょっとした演劇が披露されたのもなかなか楽しそうで良かった。客席は大変盛り上がっていた。ワヤン・カンチルは21時くらいに始まって22時半には終わっていたと思う。途中でみんなに食べ物が配られた。床に落ちていたお米を踏んだりして靴下が汚れたけど、寒かったので脱がないでいた。
 
演目が終わると、大人たちがマイクを順番にまわして、演劇に関しての意見交換会を始めた。ジャカルタで俳優をやっているというお兄さんが来ていて、鈴木メソッドがどうとか(聞き取れず)、今度「第九回シアターオリンピックス」に参加するので8月に日本に行くぜ、日本で会おうぜ、と言っていた。目つきとか身のこなしが都会っぽくて、グローバルな現場の人間です!という感じの勢いがあって、おお、ジャカルタの風…とちょっとタジタジしてしまった。
途中、その20人くらいが見ている前で「なぜインドネシアの数ある芸能のなかでワヤンクリに特別惹かれているのか」という質問をふられて、英語でもいいよと言われたけど余計わけわからなくなりそうだったのでインドネシア語で頑張って答えた。あんまり上手く話せなくて悔しかった。
数回お会いしているダラン(人形使い)のお兄さん(Andriさんの友人)も来ていて、彼は今夜はgender(ふわふわした音の、両手で叩くガムラン、ダランの相棒的な役割で今喋っているキャラクターの声の高さを定める手伝いをしているらしい、ダランがセリフを言っている時に他の楽器がみんな休んでいてもこの楽器だけは常にうっすら鳴っている)を演奏していた。でも楽隊の他の楽器は全然ガムランじゃなくて、genderの他にはウッドベースアコースティックギターがいた。
 
意見交換会は1時間半くらい続いたので、終盤になるにつれて、みんながだんだん飽きてきているのがよくわかって可笑しかった。一人ずつがマイクをもらったら一気にぶわーーっと言いたいことを言う、というスタイルで、あまりディスカッションという感じではなかったのでわたしもよくわからなくて飽きてしまった。それがお開きになると一気にバラシが始まった。さっきの小柄なダランもめちゃくちゃ小柄なのだけどかなりこなれた感じで暗幕をテキパキ畳んでいた。暗幕などがひとしきり片付くと、かえって少し空間が狭くなったような感じがした。
また降り出してしまった雨が止むのを待つため、さらにおしゃべりをして時間をつぶし、ようやく帰った。帰りは少し違う道を仲間たちも一緒に通ったので、「ここは昼間に来たら田んぼが見事で景色がいいんだけどなあ」「おれ昔このへん住んでた」「これは競馬場だよ」など、色々教えてもらった。暗くてあんまり見えなかったけど。
 
 
 
 
 
 
繰り返しになるが、わたしは、この土地の夜のことがとても好きだ。日本の夜も好きだけど、それとは全然違う。ここの夜は時々、人間の時間というよりも、他の何かのための時間という感じがする。
人間よりも圧倒的に大きくて生々しい木々、濃い暗がり、人間ではない生きものたちの声。
 
 
それに、夜には、わたしにとって面白いものや、素敵なことが多い。「なんていい昼なんだろう」と思うことはあんまり多くないけど、「これはいい夜だな」と思うことはとても多い。
 
まず、滞在初日に、真っ暗な村を葬式の行列がゆくのを見て、よりによって夜にやるのかよ、怖いわ!と思ったことがあった。ここの夜の第一印象はそれだった。だから、住み始めてしばらくは、日が暮れたら出かけるのはよしていた。歩道には時々穴が空いているし、街灯も少ないので夜はちゃんと暗くて、霊的なことを抜きにしても怖い。
 
また、部屋の外の水道で歯を磨くようになってからは、毎晩必ず、遠くの山の村の明かりがキラキラするのを見ている。晴れていれば月も見えるけど、雲が多くて山の村の明かりさえ見えない日もある。そして、いつも日本の9月の夜みたいな涼しい風が吹く。時々なんとなく何かがちょっと怖いし、雨の時は歯を磨くのが億劫になるけど、そこでの歯磨きは好きな習慣になっている。部屋でギターを弾いて歌うのもたいてい夜で、その時間の静けさのなかで、笛を吹くみたいにほんのり歌を歌ったり弦を爪弾いたりするのはとても心地がいい。
加えて、家の前でいつもトッケーが鳴く。この声がとても可愛い。先日友達に「トッケーが7回鳴いたらオバケを呼ぶんだよ」と教えられてからは不気味さが加わってしまったけど、むしろちょっと不気味なほうがしっくりくる。だってメチャクチャでかくて全身に斑点のあるトカゲだもんな、そりゃ不気味だ。オバケくらい呼んだっておかしくない、、(以後、トッケーが鳴くのが聞こえるたびに何回鳴いたか数えるようになってしまって、先日珍しく6回目まで聞いた時には恐ろしくて鳥肌がたった。オバケは無理)
 
夜に見て印象的だった芸能もたくさんある。ワヤンクリがあるのは絶対に夜だ。ゲストハウスのオーナーと、「わたしインドネシアの夜がとても好きです」「なんで」「ワヤンクリがあるから」「がはははは」「……(そんな笑う?)」という会話をしたこともあった。
バリで見た、オダランという村のお祭りも夜だった。ヤシの葉でできた白っぽい飾りや大量にぶら下げられたオレンジ色の花や黄色い布などの飾りは、暗い夜空とのコントラストによって、より一層輝きを増し、見事な眺めになっていた。客席もガムラン隊も、全員がギュウギュウに集まって中央でバロンが舞うのを見つめていて、ざわざわしているけれどワアワア騒がしいのではなくて、密度の高いような熱狂があった。明け方までこの祭りは続いて、最後には少女たちのトランスダンスがあるのだそうだ。今回は最後まで見ることが叶わなかったけれど、いずれ見てみたい。
 
そして、これは個人的な話だけど。すっかり仲良くなった何人かの友達が、彼らのアトリエや家に連れて行ってくれるのもだいたい晩だ。音楽のライブがあるのも晩だ。しかも例えば20時スタートと聞いてその時間に間に合うように行くと21時に始まるし、終わった後にみんなたっぷりお喋りをするので、たいてい深夜に及ぶ。
 
夜、友人のシェアハウスの庭の木のランブータンを、長い棒を使ってとってもらっては食いとってもらっては食いしたこともあった。美味しいランブータンだからだろうか、アリがたくさんたかっていて、暗くて見えなかったのでうっかり一匹食べてしまったらすごく酸っぱくて、虫を食べて気持ち悪いとかいう以前に笑ってしまった。酸っぱいというか、唇のごく一部がちょっと痺れた。ランブータンの皮を剥く前に、ゆで卵の殻を剥く時のように床で何度もトントン叩けば簡単にアリが落とせる、という、日本ではまず使わない技を教えてもらった。違う品種のランブータンが一本ずつ植わっているので、それらを食べ比べた。しっかり甘くてやわらかいものと、さっぱりしていて食感もシャキッとしたもの。どちらも美味しかった。
このシェアハウスに来ると、だいたいいつも深夜まで、グダグダとおしゃべりをして過ごすことになる。でもみんなムスリムなのだろう、酒は飲まない。温かいお茶を飲みながら、タバコを吸ったり、時々楽器を弾いたりする。何人かはそのへんで寝る。
 
先日泊まった時は、気を使っていただいて、わたしは部屋とマットレスを使わせてもらった。布団はないので、着てきた上着をかけて寝た。電気を消して、真っ暗ななかでさらに目を閉じ、虫の声と、時々鳴く鶏か何かの声と、まだ部屋の外で友人たちがモソモソおしゃべりをしているのを聞きながら眠りにつこうという時、数年前までしていたシェアハウスのことを思い出して、こういうの大好きだなあ、と気持ちがあたたかくなった。
自分は、さすがに大人なので、一人だと寂しくて寝られない!ということはないけど、一人じゃない生活は心の健康にいいと思う。すごく疲れたりしていても、誰かと少しでも笑いつつ言葉を交わせれば、暗い気持ちに飲み込まれずに済む。
先日、学校でけっこう気持ち的にキツイことがあった後、泣いたり怒ったりしないギリギリの表情(真顔)で職員室に戻ったら、AndriさんがYoutubeで音楽をかけながら歌っていて、わたしもよく聞いている好きな歌だったのと、陽気すぎるだろwwというのとで、一気に気が緩んで、なんか笑えてしまって、すごく楽になったということがあった。ギューと縮んでいた体が軽くなったみたいだった。
 
人と話したり笑ったりするのをうまくやれると心が良いコンディションに保てる、という人生の基本が、こっちにきてからすごく重要になった。1人で外国にいて油断をするとすぐ孤独な気分になるので、言葉や笑顔を交わす相手がいるありがたみがすごく沁みる。
そして、言葉が全部はわからなくても話す時にたくさん笑ってくれる人というのが何人かいる。日本語がよく通じるけどあんまり笑ってくれない仕事先の人よりも、インドネシア語か英語しか通じない彼らのほうが、よっぽど深くわたしの心を助けてくれている。たぶん、人と人の間において、知識とか技術としての言葉はさほど重要じゃない。大事なのは笑顔と優しさ……。
 
 
 
いきなりここで友達自慢タイムですが、最近仲良くなったAditという友人も、そういう感じで心を助けてくれる人たちの1人だ。彼は顔が変形するくらい思い切りのいい笑顔をする。日本語は話せない。ジョグジャに住んでいる彼とはライブ会場で知り合っただけあって(他の人に誘われて聴きに行ったライブの企画に関わっていた)、共通の話題が多い。共通の友人もいて、えっあいつと友達なのかよ!というのもあったし、映画や音楽のこと、ジャワやバリの文化のことなど、いろんなことが話題に上がる。歳も近いし、大変人間のできた頭の良い奴で、話しやすい。多分、彼が日本人で、日本で出会っていたとしても、こういう感じで仲良くなれただろうと思える人だ。
 
その彼と話すようになってようやく、わたしは一人称として最もよくインドネシア人が使う「aku」が使えるようになった。「aku」のほうが、「saya」よりも口が早い感じがする。そして語学の授業で習ってから仕事の場で使っている「saya」というフォーマルな一人称で話す時よりも、ずっとずっと楽しく話せる!!
多分、話している内容が楽しいということも大いにあるんだけど、話している感触が全然違うということに、けっこう感動してしまった。話している相手が自分のことを「aku」と言っているのと同じ温度で、同じ速さで、わたしも「aku」と言えるのが、嬉しい。彼の友人と3人で雨宿りをして喋っていた時、彼らの速さに合わせてパパパパ、と喋れる瞬間が何度かあった。あれは「saya」じゃなくて「aku」の速さだった。「いや、それ違うでしょw」とか「わたしも!」とか、そういう短いコメントをパッと挟みたい時には、ある程度、一人称の速さが必要なのだ。
 
 
最近ようやく2年ぶりに会えたインドネシア人の友人がいる。彼は2年前に会った時の英語も早口だったけどインドネシア語で話すことになったら輪をかけて早口で、すごく聞き取るのがギリギリだった。それでもなんとか「aku」の速さなら会話ができて、すごく嬉しかった。やっと自分が、日本にいる時とあまりギャップなく、自分としてここにいて、自分として人と接することができているような気がした。やっとここまで来た、という気分だ。(とはいえまだまだボロボロ語なんですが)
 
もっと長くここにいられたら、きっともっと楽しいんだろう。でも、彼らのインドネシア人同士での会話とか、SNSでの振る舞いとか、いろんなものを見ていて思うけど、私はまだまだこの人たちの世界の外にいる。一緒に過ごす時間が増えるほど、仲良くなるほど、「それでもわたしは一時的にここにいるだけの異邦人なのだ」という切なさがこみあげてくる。体が二つあれば良かった。
 
「aku」と「わたし」がせっかく一つになってきたのに、変な話だ。でも本当に体が二つあれば、片方はここに住みたい。ひとつなので帰りますが。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

勢いづく好き

 
年が明けてすぐ、縄跳びを買った。
こちらに来てからというもの、本当に運動不足だ。それでちょっと顔が丸くなったこととか、明らかに筋肉が落ちたこととか体力が落ちた実感が日に日に増して、だんだん心が厳しくなってきたので、日常的に何か運動をしようと考えた。ジョギングをしている人間がいない町で外国人が走るのは目立ちすぎる気がして嫌だったので、家の前で縄跳びをすることにした。近所のスポーツ用品店に入ったらすぐに見つかった。黄色い紐と木のグリップのが可愛かったので、それを買った。
 
日が暮れて涼しくなった頃に外へ出て、12分くらい跳ぶ。短い時間だけどかなり汗をかく。たまに気が向くと時間をおいて2セット跳ぶ日もある。そして、さすがに1ヶ月くらいほぼ毎日やると、上手くなろうと思っていなくてもなんとなく上達する。程度は低くても何かが上達するのは楽しい。あと、その日の体の重さと足の調子がわかるのも良い。わたしは足首と膝が弱い(筋肉が足りず関節を痛めがち)ので、最初は少し痛かったけど、だんだん慣れて痛まなくなった。
始めた頃は「連続ジャンプ」みたいな間抜けな感じになってしまっていたのが最近は「目的のために体重を落とそうとする人」という雰囲気が出てきたような気がする。気分だけはボクサーだ(何を考えながら縄を飛ぶかは自由だ)。それと同時に、なんとなく抱いていた恥ずかしさも消えた。夜に部屋で飲むお茶のために笛つきのヤカンを火にかけて沸騰を待つ間に縄跳びをしだす、というのがルーティーンになったので、たまに(さっき食べたばかりなどの理由で)縄跳びをせずにぼうっと沸騰を待っていると「今日は縄跳びしないの?」とオーナーがニコニコ話しかけてくる。
オーナーは私よりも背が低くて、まあるい腹とキョロキョロしたインドネシア人らしい目をしているのだけど、最近は特に表情がやわらかくて、生活の面倒をみてくれる妖精みたいだ。おじさんのタイプの妖精。最初の頃は全然うまく話せなくて怖くて、会うのも避けていたくらいなので感慨深い。大雨の日にわたしが部屋にこもっていたら車を出してくれて、奥さんと3人でお昼ごはんを食べ映画を観に行ったりもした。帰りが遅いと心配をされるし、さながらホームステイである。
 
そう、1月は、雨がとにかくたくさん降った。12月よりも降ったと思う。ほぼ毎日大雨が降って気温も気圧も下がるので、日本の6月(6月って初夏の雰囲気があるけどけっこう寒い)に様子が似ていた。学校へ行っても調子の悪そうな先生が多かったし、わたしもなんとなくシンドイ日が多かった。基本的に朝は晴れているけど、昼にもたまに降るし夜は絶対に降る。
12月に人から「1月以降は少し雨が減る」と聞いた記憶があるけど、雨がいつ減るのかについては人によって言っていることが違うので結局よくわからない。この前は「2月の中国正月までは雨が多い」と他の人が言っていた。今日がその祝日だったから、そろそろ減ると期待したい。再来週はついに、友人たちと一泊で登山へ行く。ずっと行きたくて楽しみにしていたので、いよいよという気分で、街に出た時に登山用品店へ行って登山靴を買った。年末ごろから登山靴の選び方をさんざんネットで調べていてようやく買ったので嬉しくて、今日は慣らすつもりで、それをはいて乗馬に行った。乗馬に登山靴が適切だったかどうかは謎だけど、良い感じです。縄跳びとか日々の運動を増やして、登山までにHPの最大値を少しでも上げておきたい。
 
 
 
 
12月に、音楽の先生・Andriさんのおかげでミュージシャンの友達ができて以降、以前にも増して、かなり楽しく過ごしている。彼らの案内のおかげで、1月は、けっこう色々な場所やイベントに行けた。行った先でも、ミュージシャンや何をやっているのかよくわからないけど愉快な若者やおじさんたちに出会えるので面白い。界隈が狭いので、「あいつのこと知ってんの?」「知ってるよ!」「あのフェス行ってたの!?俺いたんだけど!」「まじ?!」みたいな楽しいことも多い。スマランの小さな店へエクスペリメンタルミュージック系のライブを聴きに行ったら、その日の企画をした人がジョグジャのレーベルの人で、一昨年にジョグジャで知り合った芸大の友人が最近そこから音源をリリースしていたので、こことここが繋がるんだ?!と思って嬉しかった。
 
 
また、先週、知らなかったら絶対に行けなかったであろうド田舎で行われたワヤンクリが見れたのも良かった。Andriさんの友人がダラン(人形遣い)をやるという情報をもらって、ちょっと無理をして行ったのだけど、場所とか状況が良かった。
 
まず、会場へ向かう道が真っ暗だった。インドネシアに来てから今までで行ってきたいろんな田舎は、ある程度の店や車通りがあって、たぶんこちらの言語感覚でいうと、なんだかんだいって、kota(町)の範疇だったのだと分かった。この日に行ったところは、完全に「desa(村)」だった。行き先をゲストハウスのオーナーに地図で見せたら「desaじゃんww」みたいな反応をされたので間違いない。ともかく、道中、街灯も何もない道が、左右に真っ暗な森と田んぼを広げて続いていて、わあ、ここで死んだら終わりだなあと思った。Andriさんにグーグルマップのピンを立ててもらった場所へ向かっていたのだけど、さらに暗い森のほうへ道が折れた時にはかなり心配になった。
とはいえ、そんな村にも人はいるので(本当に、どこにでも人がいて、人口の多さを思い知らされる)彼らに道を聞いてなんとか辿り着けた。ビカビカ光るおもちゃや屋台が並んでいて、たくさんの子供が遊んでいて、大人もたくさんいて、だいぶほっとした。そこを抜けた先に、やっと、ワヤンクリの舞台があった。ビカビカの屋台の道から、さらに少し奥まったところにおなじみの形の仮設の舞台が設えてあって、バナナの木の葉っぱごしにそれを見つけた時には、ちょっと感動さえしてしまった。ちゃんと辿り着いたぞ!という達成感も少なからずあった。そして、舞台はわたしが着いた時にはすでに明るくなっていて、白くて大きいスクリーンの左右にズラーッと並んだワヤンの金色がピカピカしていて、すごく豪華というか、迫力があった。目が気持ち良いなあと思った。月も出ていない暗い夜の、田舎の森の雨の中で見たその光景は、魔法の場所みたいだった。少し暖かい色の照明が照らして、所狭しと並べられたガムランも宝物みたいにキラキラしていた。
 
この日は、初めて朝までワヤンクリが観れた。この日のダランは、見習いっぽい若い男の子が2人と、先輩っぽい30代くらいの男性が1人で、見習いの2人は途中で交代した。(あの先輩っぽい人がAndriさんの友達だろうな、いい感じの人だな、と思って観ていたら次の日の夕方に行った全く別の音楽イベントで遭遇した…。5歳からダランの勉強をしてきたと言っていた!)
当然、客席から見るつもりでいたのだけど、始まる直前になってなぜか「そこ座っていいから!」と偉いおじさんたちに急かされて、ガムラン隊のいるステージの真ん中のちょっと下手あたりに座らせてもらってしまった。そんなの初めてだったのでびっくりした。「誰だか分からないよそ者が来たけど、こうしておけば悪さもできまい」という村らしい理由があったかどうかは知らないけど、そうだとしたら超有効だな、と捻くれたことを考えた。でも、そこに座らせてもらえたのと朝までいられたおかげで、今までイマイチなPAのせいで全然聴けないでいたRebabや琴の音がすごくよく聴けた。嬉しかった。嬉しかったし、Rebabや琴を弾いていたメガネのお兄さんは、仲間たちとの機材車でわたしの帰り道を助けてくれた……(明け方4時に終了だったので朝早すぎて帰りのタクシーが捕まえられずにいたところを近くの大きい町まで送ってくれた)。ソロの芸大で勉強している人だった。
 
その次の週には、スマランでワヤンクリを観た。ソロに留学中の芸大の方から情報をいただいて、かなり名人のダランが来るとのことだったので、この日はもう最初から朝までいよう!と決めて、朝7時からの授業を終えたあと家に帰って3時間くらい仮眠をとってから出かけた。それが功を奏して、けっこう良いコンディションで観ることができた。
この日のイベントは、わたしでも分かるくらい明らかに上質だった。全てのクオリティが高かった。今まで自分が地元で見て来たワヤンクリがいかに田舎くさいものだったかがよくわかった。場所も、スマランという都市の中心部で、会場もかなり大きくて立派で、招待客の数も多く、全員ジャワの正装をしていたので、客席も見事だった。ガムランのピカピカ具合も全然ちがった。もはやかえって安っぽく見えるくらいに金ピカだった。テレビもきていて、中継の映像(ダランの横顔とか客席の様子などカメラが4台くらいあった)がずっと舞台の下手にプロジェクションされていたし、PAも当然のようにちゃんとしていて、耳がウッとなるようなこともなく快適だった。
 
内容に関しては、最初から最後まで上品だった。当然のようにダランの(3人いて、短めの別々の演目をやった)パフォーマンスがうまくて、声もそれぞれに良くて、人形が!!生きている〜〜!!みたいな単純な感動がずっとあったし、音楽が次々に変化していくのもかなり楽しかった。「オカマ芸」(と言ってしまうんですが)(派手な化粧と女装をした男性が女の踊りを踊る)も田舎のものと同じく一応あったのだけど、田舎のそれと違って黙って粛々と踊っていて、なかなかカルチャーショックだった。激しいダンドゥをセクシーに踊ったり下ネタを言って会場を沸かせたり客の男をいじったりとかもなかった。ワヤンクリじゃなくてワヤンゴレ(立体の人形)も少し観れた。朝四時に全部が終わった頃には、見事……、大満足っス…、という気持ちになったのだけど、個人的にちょっとそれどころではない演目があった。
 
ワヤンクリが始まる前に、偉い人の挨拶やダンスなどがひとしきり行われたのだけど、そのうちの1つが謎だった。KarindingやcelempungそしてDidgeridooといった、竹でできた口琴や、弦?楽器(竹のボディに切り込みを入れて弦にしている楽器、ボディがシームレスに弦になっていて叩いたり弾いたりして演奏する、かっこいい)と、わたしの身長より長そうな厳ついディジュリドゥー(ほぼ長い竹で、金管楽器みたいに唇を震わせて鳴らしたりする、超低い音が鳴る、くそかっこいい)をたずさえた4人組が現れて、ちょっと演奏をしたのだ。舞台の下手奥の方に座っていて遠かったので、急いで舞台袖へ回って見に行ったけど、口琴1人とCelempungが2人と、もう1人が何を演奏していたのかがよくわからなかった…(Celempungの1人はディジュリドゥと両方やっていたっぽい)。本当に短いパフォーマンスで、レコーダーで録音したものを確認したところ2分もやっていなかった。短すぎる。再び現れるだろうかと期待を込めて朝まで過ごしたけど、結局彼らは最初の一度しか登場しなかった。
短いパフォーマンスだったけど、口琴を演奏した女性が線香を焚いて、なんらかの祈りを捧げていたようだった。彼らは、服装も他のガムランなどの奏者とは全然違っていて、もっとプリミティブな雰囲気だった。ロン毛もいた。口琴を演奏していた女性は紅一点で(ガムランの楽隊にシンデン(歌手)以外の、楽器を演奏する女性がいるのを見たことがない)頭にビーズの飾りを巻いて、かっこいい感じの人だった。なんか魔術とか使いそうな人たちだな…と思うと同時に、楽器職人の友人たちと活動領域がかぶってそうだな…と思った。なんとなく全体的に小汚い感じ(失礼)とかにかなり親近感を覚えた。友人たちに次に会う週末に、彼らが何者だったのか聞きたい。(宮廷音楽と土着の音楽、みたいな違いなのだろうかとぼんやり思っている。)
 
 
どうやら自分は、竹で作られた楽器の音がかなり好きだ。
 
バリのオダランでバロンの踊りを観た時、ガムランの途切れた瞬間に聴こえた竹の笛のかすれた音が、ぞわっとするほど不気味で、うわーー、となったのはよく覚えているし、口琴ディジュリドゥのように口を使う楽器のブリブリした低い音が、泥っぽくて好きだ。竹のガムランもウホウホしていてすごく元気になる。そういえばCelempungに似た自作楽器を演奏するSENYAWAのウキルの演奏も、あの土臭くてウホウホした音だ!あれだ〜〜〜!!と今書いていて気づいた、わああ〜〜
 
この日に目撃(耳撃?)したのはたった2分程度の演奏だったけれど、その時間、わたしは明らかにテンションが爆上がりしていた。やっと「自分はこういうのが好きなんだな」と確信できた。ああいう楽器の伝統的な演奏は、どこでどういう機会で聴けるんだろう。ギターなどの他の楽器と組み合わせたりして新しい音楽を作っているのは時々みる機会があったけど、この日の彼らのような伝統的なスタイルのものがあるなら聴いてみたい。
とりあえず、ネットでわかることは調べるけど、インドネシアの竹製の楽器を調べるとだいたいスンダ地方発祥と言われているので、スンダ地方と、バリのヌガラにあるというジェゴグ(竹ガムラン、ここには巨大なのがあって中に入れるという噂を聞いた……)の博物館に行ってみたい。めちゃくちゃ元気になれる気がする。今回の滞在中に行ける気がしないけど、万が一時間があったらすかさず行きたい。
 
 
 
自分が歌を歌うことと、こういった竹の楽器の音楽の何かが直結する感じはあんまりない。口琴は口を使うのもあってすっかりハマっているしディジュリドゥはやってみたら多分めっちゃ楽しいだろうけど。でも、ともかく好きなので、ちゃんと好いていようと思った。
 
インドネシアに来てからというもの、あまりにも精神的に1人なので、変な自意識みたいなものが削げてきて、なんかもう好きなものを好いていられればいいじゃん、という感じになってきた。東京にいると、自分が好きなものが世間的にイケてるかどうかとか、批評的に価値があるかとかがいちいち気になっていたけど、そういうのって全然、自分の心に関係ない。好きだな〜とニヤニヤできるものを素直に好いている時間というのが一番確かに自分のことを支えてくれる。
インドネシアについても、色々言語化した目的とか興味はあるけど、根本的には好きさでニヤニヤできるから、こうやって何度も足を運んでいるのだと思う。そう、インドネシアに行くことがイケてるかどうかなんて、考えていなかった。自分に合うかどうか、自分がアガるかどうかが全てで、そういうものがあれば、1人になっても心を保っていける。
 
 
 
もうそろそろ帰国する準備とか、帰ってからのことを考える時期だ。2ヶ月後には日本にいる。でもどういう感じで日本にいるんだか、全然想像できない。
ただ、想像できないなりに着々と、4月とか6月とかの、東京や大阪であるライブのチケットをとったりしている。インターネットはつまんないくらい便利だ。
ここへ来る前の9月には、10月や11月に日本である行きたいイベントに行けないの悔しい〜、と思っていたけど、この頃はその逆だ。行けます。嬉しい。絶対に無事に帰る。
 
 
 
 
 
 
 
 

わたしが観たワヤン・クリ

年末にバリで観て、やばさがよくわかってスッカリ惹かれてしまっている芸能がある。Wayang kulitだ。カタカナだとワヤン・クリッとかワヤン・クリとか書かれる、影絵の人形劇である。牛の皮(kulit)を切り抜いて穴を開けたり着色したりして作った精巧な影絵人形の数々(125体以上ある)を、ガムラン等の演奏をバックに、ダランと呼ばれる人形遣いが操る。彼は、歌、語り、色んなキャラクターのセリフ、楽団への演奏指示まで、すべて一人で行う。マレーシアにもあるらしいが、インドネシアではジャワとバリのものが有名で、観光ガイドにもよく載っている。
 
このワヤン・クリ、以前から存在こそ知ってはいたものの、実際にちゃんと見たのは今回の滞在が初めてだった。(インドネシアに今まで2回も来ておきながらなぜ観ていなかったのかマジで疑問……)今回は、この滞在の前半で見たワヤン・クリと、多少なりとも関係のあることなどを振り返って全部書く。
 
 
 
 
まず、10月20日。土曜の晩に、家から車で30分ほど行った近場の山あいにある村(Sumowonoという山のJubelanという地域)で結婚式にあわせてワヤン・クリの上演があるという情報を、派遣校の先生から得て、生徒たちと一緒に連れて行ってもらった。
会場は、住宅地のあいまにあるちょっとしたイベントができる広場だった。足元は地面なので土だけど、客席の最前列だけは関係者の偉い人たちが座るソファ、あとは全部プラスチックの椅子が並べられており、80人以上は座れるだけの席があった。結婚を祝うということもあって、ワヤン・クリが始まる前にもダンドゥの演奏・歌唱があったり、地域の高校生たちによる合唱があったりした。(最近はお金がかかりすぎるという理由で結婚式にワヤン・クリを呼ぶことはかなり減ったらしい)
20時ごろから始まるということだったのでその頃に向かったけれど、ダンドゥや合唱があったので、ワヤンクリが始まったのは21時を過ぎていた。楽団はなかなか大所帯だった。低めに組まれたステージに、ガムランや太鼓が所狭しと並べられて、Rebabというバイオリンのような楽器や竹笛など、多くのインドネシアの伝統楽器があった。ステージに椅子はなく皆あぐらをかいて座っている。
肝心の影絵芝居なのだけど、なんと、ここでは全く影を使わなかった。本来は白いスクリーンの向こう側から影を見るのが影絵だけれど、この日のスクリーンは、観客から見て舞台の一番奥に配置され、ダランは終始客席に背を向けて上演をするのだった。幅5メートルはあろうかという大きな白いスクリーンの両側に、美しいワヤンがずらりと並んだ様はとても見事だったけど、影、使わないんだ…??と不思議だった。でも演出がかなり派手で、時々色のついたライトがチカチカしたり、ダランも、ワヤンを投げて一回転させたり、ワヤンの腕を持ったままグルグル回したりしていた。よく壊れないな、と思った。ただ、PAがひどくて(楽器が多くて難しいだろうとは思うけど)、ダランの声をひろうマイクだけが暴力的なほどの音量で鳴っていて、かつ低音がめちゃくちゃきつく効いていて、せっかく演奏しているのにRebabなどの繊細な音はほとんど聞こえなかったし時々顔を後ろに引くくらい爆音になる瞬間があってつらかった。あと、ジャワ語なので、なんて言っているのか全くわからなかった。途中、楽団員たちの休憩のために、紙製の箱に入ったお弁当と水とタバコが配布されるのが見れたのはおもしろかった。基本的にダランはほぼ休みなく人形を動かしたり歌ったりしているのだけど、楽団はずっと演奏しっぱなしではなくて、わりと休んでいる時間がある。
車で連れてきてくれた人の眠気が限界になりかけていたので、引き剥がされるようにして24時半ごろに引き上げた。山の上なのでかなり寒くて、これを朝4時まで観る人はどれくらいいるんだろうと思った。
 
 
その後、ワヤン・クリではないのだけど、12月1日の晩にSalatigaという隣町のTaman Tingkirというおそらく市営の公園で、Kethoprakという演劇を観た。広い公園の一角にテントとステージが建ち、Kethoprakの前には地元の中学生や小学生によるダンスやカラオケも行われた。少しだけだけど屋台も出ていた。見ている人も演じている人もみんな地元の人という感じの小さな催しだった。
Kethoprakというのはジャワの大衆演劇で、時々笑えるシーンがあったり派手な殺陣があったりして、客席も盛り上がってワイワイ見るタイプの芝居だ。ただ、セリフの全てがジャワ語で、しかも王宮で話される丁寧語・謙譲語で話されているという点ではかなり硬派である。ほぼ古語みたいな感じで、インドネシア人にとっても難しいという。もちろんわたしは殆ど何を言っているのかわからなかった。後から聞いたところ、この時のストーリーは、王様の後をつぐ人が必要になり、腹違いの兄弟が家同士でモメるというものだった。最終的には心が清いほうが勝つ。ワヤン・クリでよく上演される「バラタユダ」という物語とよく似ている(が、関係ないらしい)。そして、悪役の顔が赤いのもワヤン・クリと同じだった。俳優は皆、かなり濃い化粧をしていて、悪役の人は顔全体がお面のように赤く塗られていた。怒っているので赤い、ということらしい。(なおワヤン・クリには顔が赤いけど心が清いキャラクター、Baladewaというのもいる)
ちなみにこの時に友人(音楽の先生)が出演しており、主人公を演じていた。悪いやつをバシバシやっつける殺陣とかしててスーパーヒーローみたいなキャラでつい笑ってしまった。始まる前に彼が案内してくれて、テントから少し離れたところでみんなが化粧をするところを覗かせてもらえた。ちゃんとメイクさんがいて、おじさんたち(出演者は全員おじさん)が彼女の手にかかってすごい顔になっていくのはおもしろかった。伝統的な芸能に関しては、上演すると市からお金がもらえるらしい。
 
 
また、12月22日には少しスラカルタ(通称ソロ、バティックやワヤンが盛んに作られているナイスな街)へ行く機会があり、弟さんがワヤン・クリの人形職人だという人に、ワヤン・クリで演じられるラーマーヤナやバラタユダなどのジャワの古典的な物語の、特にバラタユダのことをたくさん教えてもらった。おおまかなストーリーと主な登場人物の名前や性格などを聞いた。
なかでも、特に面白かったのは、Semarの話だ。ジャワの人たちは、この物語のなかに登場するSemarというキャラクター(王家の家臣のひとりで、正義に溢れた教育をする謙虚な性格の太ったおじさん)が好きで、Semarは俺たちのジャワ・スピリットだ!みたいなことを言っていた。mengasuh(養育する、世話を焼く)と、rendah hati(謙虚な心)が大事なのだそうだ。なるほど、ジャワの人(ジャワの人しか知らないけど)はいろんなことを熱心に教えてくれる…。実際どれくらいこういう心意気をみんなが持っているのか知らないけど、「ワヤン・クリは子供達のモラルの教育にもよい」と言っていた。多くの人が子供のうちからこの物語を聴いて育っているのだろう。
また、少なくとも私の滞在している地域に関しては、このSemarというおじさんの彫刻がかなり色々な場所に置いてある。店の前に置かれていて、首から「Buka(Open)」の札をかけていたりもして、愛嬌がある。よく太ったおじさんの彫刻があるけどあれはなんだ、とずっと思っていたけど、これだった。
 
 
そうしてかなりザックリした基礎知識を仕入れて、バリへ行った。
 
 
バリでは、12月27日と28日に、ふた晩つづけてワヤン・クリを観た。
27日に観たほうは、とても小さい会場だった。ウブドの「Pondok Bambu Music」という、楽器と、ワヤンもちょっと売っている店の奥に、壁の一部がスクリーンになっていてその奥に小さな小部屋があるというワヤン・クリ専用のスペースが設えてあった。わたしはネットで情報を得て一人で来た。毎週月曜日と木曜日の夜8時からやっているというが、その日の観客は6人だけだった。スクリーンもジャワで見たものに比べるとだいぶ小さい(三分の一くらい)。上演が始まってしばらくした頃、係のおじさんが「舞台裏もどうぞ見てください」と言って、スクリーンの向こうの小部屋へ続くドアを開けて、観客たちにスクリーンの裏側を観せてくれたが、ガムランの楽団も、たった4人だけだった。ガムランが4人、ダランが1人、ダランの助手(次に使う人形や使い終わった人形を受け渡す係)が左右に1人ずつで、計7人による上演だった。そして一切のPAがなく、完全に生音だった。ダランの頭上(というか顔の前)に釣られたランプの明かりは本物の火で、とても明るかった(ここでは電球も補助的についていた)。この火によって、スクリーンのダラン側の演者たちの手元は照らされ、客席側には影が浮かび上がる。
ダランは、右足と左手に木でできた槌(cempalaという、手のひらサイズの、木槌の先だけみたいなもの、きちんと彫刻してある。)を一つずつ持ち、あぐらをかいて座り、自分の左に置かれた大きな木箱(上演が終わるとこの箱にワヤンをしまう)を時折カッカッカッ!!と叩いてかなり大きい音を鳴らす。これでキャラクターの足音などを表現したり、時々拍子木のように雰囲気を出したりしていた。この音がガムラン隊への指示出しにもなっているらしい。ダランは次々とワヤンを持ち替えて物語を進めていくのだけど、スクリーンに新しくキャラクターを登場させる前に、ワヤンを両手に載せたまま歌を歌っているのが、魂を吹き込んでいるみたいに見える瞬間があって、けっこう魅入ってしまった。
楽器屋の前を通るバイクや車の音がうるさいのが本当にもったいなかったけど、その難をさしひいてもなお、エキサイティングな約1時間だった。ダランの演技はとても激しくて、時折ワヤンでスクリーンを叩くような表現もあった。矢が飛んできて死ぬみたいなクライマックスのシーンでは、普通に「わ!死んだ!」と思った。いつのまにか素直に夢中になって見ていた。
 
 
28日に観たワヤン・クリは、Oka Kartini という、いいホテルに併設された劇場と専属の劇団によるものだった。そこにはワヤンクリの会場のみならず、ワヤンやそれに準ずるあらゆる工芸品が並んだギャラリー(ワヤン作り体験もできるらしい)があったり、お土産屋さんはさながらミュージアムショップで、バタック族(スマトラ島の民族)の呪術のための古い本(木の皮にバタック語で書かれていて蛇腹折りになっている)がおしゃれなアクセサリーやクッションカバーに混じって売られたりしていた。(一緒に行った大学の教授は、こんなとこに売ってて素手で触っていいのかよ、と気にしていた。)
ワヤン・クリは、ステージこそ小綺麗だけれど編成などは同じだった。でも今回は始まる前から、ダランの様子を徹底的に観てみようというつもりで、わたしはほとんどずっとスクリーンのダラン側にいた。この時のランプは、先日のと違って補助の電球もなく、本当に火だけだった。始まる前、チャナン(お供え物、花や線香やお菓子をヤシの葉でできた小さなお皿に載せたもの。毎朝人々がこれを家や店の前に供えてお祈りをするので、バリでチャナンを見ない日はない)を置いて、線香を炊き、お祈りをしていたし、終わった後にワヤンをひとつひとつ箱にしまう時にも、特に重要なものについては、その絵柄を味わうように眺め、クルクルと回したりしてから丁寧に祈るようにしまっていた。ちょっと厳かだった。大きくて、閉めたら中は真っ暗になるであろう木箱は、棺桶みたいだった。しまう前に、ダランは自分の頭上にあるランプの火にワヤンをかざしてクルクル回すのだけど、あれはほとんど炙っているよなと思う。牛の皮でできているんだし、カビとかの予防になっていそう。(ちなみに下手なダランはワヤンを焦がしてしまうらしい)
観光客へ向けたパフォーマンスなので、時々セリフが英語混じりなのは27日に観たものもそうで、若干の惜しさがあったけど、意味がわかるので劇として楽しめるというありがたさもあった。なお、Oka Kartiniでわたしが観たダランは、ドナルドダックみたいな発声が得意技らしく多用していた。
 
この日は、特に印象に残った瞬間があった。ダランが、次に登場させるワヤンを手にとって、いままさにスクリーンに当てようとする直前、間を持たせるみたいに歌声を長く伸ばしていたのだけど、なんというか、当たり前なんだけど焦りは全然なくて、たっぷりとした間をもって腰から上が前かがみになるのが、なんだかすごくよかった。その、名前のない隙間のような時間にも途切れることなく表現が続いていることにグッときた。27日に見たワヤン・クリの時にも思ったけれど、口も両手も足も使って、朗々とした歌と早口の語りと踊り(人形を操作する両手はほとんど踊っている)と演奏(木箱を叩く)をしているのがあまりに凄まじくて、きっとこれは神様だなあというふうに思ったけど、ぴったりくる言葉がない。神様と言ったら違うと言われてしまうんだろう。
 
うまく言えないけど、ダランは、かなりやばい仕事だと思う。その日上演する内容は、始める直前にお祈りをして降りてきたものをやる、という噂も聞いたことがある。噂だけど。ダランをできる人というのはその社会において特別な存在で、とても尊敬される人なのだそうだ。それに、ジャワのダランはこのノリで一晩中やるんだから、やばい、ぶっ飛んでいる。
ちなみに、次々とお面を変えながら演じるトペン・ダンスというのがバリにあって、これは今回観られなかったのだけど、色々な声色を使うという点でダランと共通点があり、ダランとトペンのダンサーを兼ねたり、仕事を変えたりすることはしばしばあるらしい。
あと、この日観たダランの顔の前にあるランプには、よく見ると彫刻が施されていて、どうやら顔のようだった。(この後ジャワで観た時にもよく観たらやっぱり彫刻があって何かを象っていた)なんの顔なのかはまだ不明だけど、顔の前で、顔の彫刻の施されたランプで火を焚いている、という状況を想像すると、まあ熱いだろうし、意味的にも凄みがある。上演中、ずっとその顔と向かい合っているのだ。全てを照らしている火の顔と。それに、あの様子では、ほとんど視界は自分の手元だけだろう。目の前のスクリーンと頭の中の物語と、鳴っている音、自分が鳴らしている音に没入するために、意図して仕組んでいるような気がする。ランプとダランの顔の距離は、見たところ場合によってけっこう違うけど、バリで観た二つはとても顔に近いところで大きな火を焚いていた。
 
 
そうしてすっかりワヤン・クリに感動して、ジャワ島へ戻った。戻ったその晩、1月1日に、滞在中のAmbarawaの近所の村、bejalenというところで、さらにワヤン・クリを観た。
 
バリへ行く直前に、このあたりを散歩していたら玄関先でワヤン・クリをいじっているおじさんがいて、一度は通り過ぎたのだけど、気になって戻って話を聞いたら、彼はダランで、さらに話を聞くと「1月1日にこの近所でやる」とのことだったので、観に来たのだった。こんなことがあるなんて、語学(そうはいってもボロボロ)をやっててよかった、散歩してよかった〜、と思った。ワヤン・クリをいじっていたのは、壊れたのを直していたのだそうだ。支柱の折れたところに接ぎ木をして糸で固定するという直しかただった。なぜ玄関先(外)でやっていたのか謎だけど、ともかくラッキーだった。
 
この日、1月1日は、この村のKadeso(村の誕生日、バリはオダラン、ジャワはカデソ)で、実は29日から4日間続けてお祭りをやっていたのだそうだ。ちなみに29日はkirapというお神輿のようなもの(川魚がとれる村なので魚にまつわるものらしい、魚を積み上げるというようなことを言っていたけど真相は不明)、30日はReog(大きなお面をつけて激しく踊るトランス)、31日はCampur Sari(綴りがあやしい、とにかく歌うと言ってた)、そして1日の今夜が最終日で、ワヤン・クリをやる、ということだった。
ワヤン・クリは20時から始まる、と近所の人が言っていたけど、開会前の挨拶とかそういうのがたくさんあって、本編が始まったのは21時だった。ただ、始まる前の一連のパフォーマンスが大仰でびっくりした。
まず、ステージ含め近くの灯りが突然すべて消えた。停電かな?と思ったけど、どうやら皆後方を気にしている。目線を追って振り向くと、松明を持った村人たちが10人くらい、2列になってゆっくり歩いて来ていて、その先頭では美しく着飾った少年が一人踊っている。彼が踊りながら向かって花道を進み、ステージの手前に辿り着いたところで、村人のひとりがダランであるハルソノさんに、ひとつワヤン・クリを渡し、今回の祭りの実行委員長とおぼしき、仕事のできそうなパリッとしたスーツの若いにいちゃんが「よろしくおねがいします……!!!!」みたいな感じでハルソノさんをがっちりハグし、そのタイミングで楽団がガムランを奏で、美しい音色が会場を包み込み、さあ〜〜!!!いよいよ始まります!!!という雰囲気に染まりきったところでようやくワヤン・クリが始まった。こんなに派手にオープニングがあるのは初めて見たので、笑えるシーンじゃないけど満面の笑顔になってしまった。
この日のワヤン・クリは、やっぱり影を使わないタイプのもので、かなり幅の広いスクリーンの両側にずらりとワヤンが並び、ダランは客席に背を向けている。そこまでは10月に見たものと同じなのだけど、この楽団は人数がとても多く、かつ演奏がおもしろかった。楽器隊のなかにも、インドネシアの伝統楽器のみならず、タンバリンやドラをめっちゃ楽しそうに叩くニイちゃん(あとで楽器を持たずにsinden歌手のマダムのひとりと踊りを披露したりしていて素敵だった)がいたり、時々トランペットも演奏されるし、女性の歌手(sinden)が6人もいた。女性の歌手たちの歌も、表拍と裏拍を1人ずつが担当して「アー」「オー」みたいなのを繰り返していた時があって、そんなのインドネシアで今まで聞かなかったので、斬新だった。ハルソノさんのワヤン・クリも、いきなり手作り感のあるワヤンが登場した時にはつい笑った。キリスト教の教会やイスラム教のモスクとおぼしき「建物ワヤン」だ。この時の物語は(わたしの理解が合っていれば)宗教が違う者同士も仲良くやっていける、みたいなものだった。(ムスリム的にそれってアリなのか?という疑問がある…。)時折スモークがたかれる(スクリーンの前、ダランの手元あたりにスモーク発生装置があった)し、ワヤンクリの合間合間に、地元の小学生や、若い女子や男子による伝統的なダンスがはさまる………地元の人による地元の人のための上演という感じで、小学生のダンスの時には親たちがいっせいにスマホを構えていて可笑しかった。
あまりにも派手で、もはやワヤン・クリの枠に収まっておらず、バリとのギャップも手伝って、わたしは終始笑いが止まらなかった。とても興味深いことが多く、でもそれ以前に笑いまくった。楽しい時間だった。
 
 
 
 
そう、ワヤン・クリの追加基本情報なのだが、あのスクリーンは、あの世と現世を分かっているらしい。ダランと楽団がいるほう、ワヤンの影ではなく鮮やかな着彩が見える明るい側が「あの世」で、その反対側、客席側の黒い影がうつるほうが「現世」だそうだ。女・子供は影を観て、男は鮮やかなほうを観るというようなことも聞いたけど今はたぶんそのルールについてはゆるくなっている。
バリでも、オダランという村の誕生日を祝う祭りがあって、その時に上演されるワヤン・クリは、スクリーンを使わずにぜんぶあの世側で上演することもあるという。ジャワで見た2回のワヤン・クリは、今のところ両方ともスクリーンを使わない、「みんなあの世側」バージョンだった。ひとつは結婚式で、もうひとつは村の誕生日kadesoだったので、やはり「みんなあの世側」はお祝いの意味が強いのかもしれない。お祝いで「みんなあの世側」をやるのってすごいな。あの世で過ごす練習だろうか。
 
 
 
そして、さらに昨日、ワヤン・クリに関してちょっとびっくりしたことがあった。
 
日本語の授業が先週から始まったのだけど、昨日の授業はテーマが「インドネシアと日本の住居の違い」だった。先生はジャワ語の教科書(日本でいう「古文」みたいに「ジャワ語」という科目がある)を開き、そこに載っているジャワの伝統的な建築を「みんな知ってるよね!」みたいな感じで例にあげつつ、日本とはずいぶん違うね〜といった話をしていた。
 
そして、これらの違いに関して気づいたことを生徒たちがノートに書いているのを待つあいだ、ジャワの家、気になるなあと思い、インドネシア語だったらちょっとわかるかも…と机の上に広げられている教科書に視線を落としたところ、どうも全部ジャワ語だった。全然読めなくて残念な気持ちになりつつも文字列をさらっていたら、「Wayang kulit」の文字を見つけた、えっ、えっ、昔は各家庭でワヤン・クリやってたのか?!!とびっくりした。バリかよ?!と脳内で雑なツッコミをいれてしまった(バリ、家によってはガムランのフルセットがあるし大体みんな何かしらの芸能ができる)
 
教科書のそのページには、家の敷地内にある建物の名前と、その機能が書かれていた。先生に確認すると、そのなかの、敷地に入って一番最初に現れる建物「pendhapa」で、しばしばワヤン・クリが行われていたという。でもそれは各家庭でというよりは、その家でお祝い事があると、ワヤン・クリの楽団を呼んで上演をするのだそうだ。ここではダンスもやると言っていた。夜通し自宅の広場(Pendhapaには天井と床と柱はあるけど壁がない)で、地域の人も集まって、影絵劇やダンスを観るの、めっちゃ良い………
 
ていうか、ちょっとバリと似てる(ジャワからバリへ人が移ったりなどもあってジャワ文化が形を変えてバリに残っているともいわれている)んじゃないの!と思って、バリの家は聖山を基準に方角が決まっているらしいけどジャワはそういうのあるんですか?とテンション高めに聞いたところ、日本語の先生には「わからないです」と言われてしまった。インターネットで調べるも要領を得ず、ジャワ文化に詳しい例の音楽の先生に聞いたらめっちゃ詳しく教えてくれた。わたしのインドネシア語が、やっぱり足りなくて時間がかかってしまって申し訳なかったけど、とても丁寧に教えてくれたのでそのうちバリのこととあわせて書くつもりです。
 
 
 
 
 
 
 
 

歌ったり喋ったりする動物として

 
だいぶ前になるが12月13日に派遣先の高校で文化祭があり、そこで歌を歌った。
歌ったその日とか次の日には、あまり思っていなかったけど、それからあっという間に2週間ほど時間がたって、あれ以前とあれ以後だなという感じがじわじわと強まってきた。
 
ちょっと恥ずかしいんだけど、わたしは人生をやっていて「第〜章が終わった感じがする」とか「〜編が終わった」みたいなことをよく思う。
なにかの上演を準備して本番を終えるとか、旅行に行って帰ってくるとか、所属していた組織を離れるとか、生きていると色々な頑張りに終わりがくる。頑張って何かに集中していた期間がパッタリと終わった時というのはだいたい呆然としてしまうし体には疲れがどっとくるんだけど、でも頭の中では、次にやることをワクワクしながら考えるのがはかどる。そういう時につい、例えば「ああ、2018年夏編が終わったな、次回からはインドネシア編だな」とか思う。章が大きく変わると「主な登場人物」とか「物語の舞台」も変わる。このために上演や旅行をしているわけではないけど、こういう風に捉えることで、ちょっとでもおもしろおかしく人生を自覚している。
 
今回の半年インドネシア滞在は、旅行というには長いけど、終わる日が決まっていることもあって、特にこの「〜編」の気が強い。今が全篇のなかの中盤あたりだ、とかを否応無しに自覚させられる。それで言うと今は第3章だ。ここへ来てすぐの生活に慣れるのが大変だった頃(1)と、慣れてきて景色も見えるし歌も歌えるようになってきた頃(2)と、だいぶ度胸がついて、人と喋る以上に遊んだり勉強したり仲良くなったり心配したり、本当に思っていることを人と話せるようになってきた今(3)とでは、やっぱり過ごしている時間の質が違う。今は、「文化祭バンド以後」の時間を過ごしている。
 
 
 
 
インドネシアの高校での文化祭は、わたしの知る日本の高校の文化祭とは少し違って、運動場に立派な野外ステージが組まれ、そこで音楽やダンスを有志のグループや個人で発表しあい、みんなはなんとなくそれを見たり見なかったりして1日過ごすというものだった。朝の7時30分から始まり、昼の14時ごろに終わる。最後のパフォーマンスは生徒たちが選んで呼んだプロのミュージシャンによるライブだった。
わたしはそのステージで、先生のバンドと一緒に歌を歌わせてもらった。とても陽気で優しいおっちゃんである生物の先生がリーダーになって、毎年先生バンドをやっているらしい。その先生とは一緒にギターを弾いて歌ったり、ギターをちょっと教えてもらったり学校の音楽スタジオでお互いがわかる歌(結局ジャズとかミュージカルのスタンダードになるのでアメリカ強いなと思う)を探してキーボードとベースを弾きながら一緒に歌って遊んだりしてきていて、「来月文化祭があるからバンドをやろう、何を歌う?」と誘ってもらったのだった。わたしはなぜか「ダンドゥをやりたいです!」と言ってしまったので、インドネシア語の歌を覚えることになった。
 
インドネシアに来てから、いろんな人に「好きなダンドゥの歌は何?」と聞いて流行の歌を仕入れてきたなかで、自分でもYoutubeで聴いておもしろかったのが「Jaran Goyang」という歌だったので、それを歌うことにした。
歌詞の内容は、恋人にフられた女が相手の男を呪術の力を借りてもう一度魅了して取り戻そうとする、というもの。去年リリースにも関わらず、いまだにダンドゥのテレビチャンネルやラジオで流れているので、ワルン(地元っぽいご飯屋さん)やアンコット(小さなバスだけど時々テレビがついている)でもよく耳にする。この曲はサビで同じメロディを違う歌詞で二回繰り返すのだけど、その最後のフレーズの歌詞が1回目と2回目で「Jaran Goyang」「Semar Mesem」になっている。これは、それぞれ、女が男を、男が女を魅了する呪術の名前らしい。知っていそうな人に五人くらい質問したけど、両者の魔法にそういう差異があると言う人と、ないと言う人がいた。断食が必要かそうでないかなど細かい違いがあるとかないとか。よくわからない。(ちなみにグーグルで「Jaran Goyang Semar Mesem berbeda(違い)」で検索すると、両者の魔法を比較というかぶつけあうみたいな検証?が出てくるので気になってるのはわたしだけじゃないみたい)いずれにしろ、両方ともジャワの恋の魔法で、怪しい呪術で、清く正しく生きている人はそんなことはやらない、というようなことは皆の共通認識だった。
 
そういう歌なので、歌詞のなかに時々ジャワ語が混じっていて、インドネシア語の辞書を引いてもよくわからない部分がままあるのだけど、とにかく音でまるごと覚えた。時々ちょっとラップみたいな感じになるので文字数がべらぼうに多いんだけど楽しい。「わたしの恋心は壊れてしまった」とか「この魔法もうまくいかなかったらあなたに毒をかける」(呪うという意味なのかも)とか、絶対に日常で使わないフレーズばかりだけど、知っている単語が混じっていたり、わかる単語と音が似ているけどジャワ語なのでちょっと違う、とか、いろんな細かい面白みがあった。Ngの発音は鼻濁音になるとか、細かい発音もちょっと教えてもらった。(インドネシア語ではほとんど使わない音だけどジャワ語にはしばしばある。)この歌で覚えた単語に、後になって違う場面で出会うことも時々あって、歌でインドネシア語を覚えるのは自分にとって良いなと思ったりもした。まあ、聖水(air suci)とか呪術師・シャーマン(Dukun)とかいった言葉にバリに来てから再会したくらいで、笑っちゃうくらい日常では使わないんだけど。
 
そう、以前、フランス語の歌を覚えて歌ったことがあった。もうそろそろ丸2年も前になるけど、ライブハウスで何度かシャンソンを歌わせてもらっていた時だ。フランス語なんて習ったこともないので、完全に耳コピの真の丸暗記で、相当メチャクチャだったと思う。でも、そんな、もう自分が何を歌っているんだかわからないような状態の歌のなかでも、「歌詞の意味的にも重要っぽいしメロディとか音楽的にも重要なフレーズ」というのはあって、そこだけは暗記した音を口の運動のように歌うのではなく、言葉として歌えるのが面白かった。歌の美味しいメロディのところに大事な言葉がくるのは言語を問わず同じだ。わたしは歌のこういうところが好きだ。他にも歌について好きな点はたくさんあるけど、わたしにとっては一二を争う好きポイントだ。
 
今回のインドネシア語のダンドゥは、わかる単語の量がフランス語とは段違いに多かったし発音に関しても比較的確信があったので、以前のシャンソンと比べたら、かなり言葉の実感があった。コードも二つしかなくメロディも単純で、歌詞を覚えることが歌を覚えることだった。
 
 
 
演奏は楽しかった。本番まで、バンドでの練習はあまりできなかったけど、生物の先生がかなりつきあってくれて、ギターと歌とか、カラオケとベースと歌だけで練習した日も多くあった。あとはとにかく一人で家で覚えて、当日はたぶん間違えずに歌えた。客席でたくさんの生徒たちが超ノリノリで踊ったりサビを一緒になって歌ったりしてくれて、楽しかった。あとから映像を観たら自分も変な動きをしていたけど、まあダサくてもなんでも、楽しければいいよなあと思えた。それくらい楽しかった。踊れるとか、ただただ楽しい!ってタイプの歌を人前であんな風に歌ったのはもしかして初めてだったかもしれない。
 
とはいえ、達成感というよりも「いつのまにか終わった」という感じが強かった。本番まであと1時間くらいあると思っていたら急に呼ばれて、え!もうやるの?!という気分のまま演奏をしたし、終わった後の余韻にひたる時間も全くなかった(写真すら撮らなかった)ので、とてもアッサリしていて良かった。ただただ歌を歌ったなあという感じ。軽やかだった。
 
 
 
そして、そのステージの終わりはそのまま今学期の終わりだった。文化祭の次の日に生徒たちは成績表をもらって先生と親と三者面談を行い、学校は12月の中旬から年始まで、休みに入る。
 
ここで少し友達自慢なのですが、ステージをへて一定の信頼を得たようで、音楽の先生(わりとしょっぱなで「大野一雄しってる?」と話しかけてきた人、教師以外に俳優や打楽器奏者をやったりしている。文化祭バンドではジャンベやカラカラ鳴るやつを演奏してくれた)とすっかり仲良くなった。職員室で机が近いので、それまでも比較的よく言葉を交わしていたし12月初旬には彼の出演していた演劇(ジャワ語の大衆演劇、kethoprak、コメディーお江戸でござるとか吉本新喜劇よりちょっとだけ硬派、みたいな感じ)も観に行ったけど、授業がなくなって休みに入ってからのほうがよく会っている。そして、彼は音楽の先生と俳優と打楽器奏者だけじゃなく、仲間と本を書いていたりするくらいジャワ文化に詳しい、ということが判明してからは、ジャワ文化に関して気になったことがあったらワッツアップ(LINEみたいなアプリ)で質問して教えてもらったりしている。インドネシア語とジャワ文化を同時に学べてめちゃくちゃ楽しい。また、彼の友達の楽器職人のアトリエに連れて行ってもらったり、仲間のバンドのレゲエを聴きに行ったり、こんど一緒にライブやろうぜとか、仲間と連れ立って音楽フェスへいく計画をしたりなどしていて、すっかり良い友人である。本当に大変お世話になっております、ありがとうございます…。
 
 
わたしは今まで生きてきて、歌(広義の歌、自作のパフォーマンスも含む)をきっかけに人との距離が縮むことが多かった。自分としても、他の何かよりも歌で距離が縮んだ人のことを信頼しがちで、この頃は「歌う動物」として生きているような気持ちがある。鳴く鳥みたいな…。(哺乳類ですが…。)
これ自体は、ただただ、そうだなあという感じなのだけど、いつのまにか、歌がなかったら出会っていなかったであろう大切な人たちがあまりに増えてしまって、もし歌がなくなったら、自分という動物には何もなくなってしまうんじゃないかという気がして時々恐くなる。
 
とはいえ、自分でも残念なのだけど「人のために歌っている」なんてかっこいいことはまだまだ到底考えられない。人と一緒に歌ったり音楽をやるのって宇宙まで飛んでいっちゃいそうなくらい楽しい!というのは半年くらい前にやっとわかったし、誰かに聴いてもらえるのは本当にありがたいし嬉しいけど、そういう風にして人と関わる云々以前に、一人で歌う歌が自分をとても支えている。
こっちのほうが多分、今は大事で、動物、という感じがするのもこれだと思う。繁殖以前に習性として歌っているような感じだ。一人で歌っている時の方が時間的にも圧倒的に多いし、時々それが、とても大事な時間になる。
自分が今までにいろんな場所で一人で歌った時のことは、よく覚えている。あまりにも多いしだんだん増えてきたので全部は覚えていないけど、とても印象的だった記憶はいくつかある。小4の時に部屋で初めて一人でこっそり歌の練習をした緊張感はまだ思い出せるし(学校で習う歌じゃなくてポップスをわざわざ練習するのが恥ずかしかった)、カナダにホームステイしていた時のキャンプ先で何かのタイミングで一人になって、山に沈む夕日の景色が美しくて嬉しくて、ちょっと勇気を出して歌ったこともあった(あれは言語的な孤独がつらくて自分のために日本語で歌ってたのかもしれないと今になって思う)。日頃、家で歌うのとか、自転車に乗って歌っていて一人で感情が振り切れていたいくつかの時間とか、カラオケで一人で歌って泣いたのとか、先日インドネシアに来て初めて部屋で歌った時とかも。ああいう時間があるから生きていける。
歌うとその声の響きで場所の物理的な環境がわかる、とか、自分の体のコンデイションがわかるとか、体内から出た声が環境と交わってまた耳から体内へ入ってくるのがエモいとか、言葉が体を通り抜けていくとか、深い呼吸ができて健康にいいです、とか、いろんなことがその時々で起きているので一概に言えないけど、ともかく、ざっくりいって、日々の中で歌を歌う時間のことが大事だ。
 
インドネシアでは、何かの宗教をもつのが国民の義務なのもあって、たいていの人が毎日お祈りをするので「ちょっとお祈りしてくるね」と待たされることが度々ある。それをはたから見ていて、毎日必ず一人になって落ち着く時間があるというのは精神安定に良さそうだなと思っていたけど、自分にとっては歌がそういう行為なのかもしれない。
 
 
 
そして、今はジャワ島を離れて、バリ島に来ている。
 
バリはジャワとは宗教が違うし、地元の言語も違う。でも、インドネシア語は同様に通じるし、特に今は観光地としても名を馳せているウブドに滞在しているので、むしろみんな英語が得意で、インドネシア語と英語を混ぜて話すというやり方でけっこうコミュニケーションがとれる。
わたしがインドネシア語を全然しゃべれない時から辛抱強く話し相手になり続けてくれた友人たちのおかげで、今まで全くできなかった「気になったことをすぐ質問する」が最近ちょっとずつできるようになっていて、依然としてボロボロながらも、自力で、インドネシア語で、目の前の人から多少の情報を得られるようになった。それが最近かなり活きている。
 
バリへ出発した朝も、とりあえずバスがくるターミナルへ行って、空港まで行くにはどこで降りたらいいのか?と係のオッチャンに聞いて正しいバスに乗れた時には、(本当は事前に調べるべきだけど)多少行き当たりばったりでもなんとかなるようになったことが嬉しかった。バリの楽器屋さんで、店のおっちゃんに、これがどんな楽器なのかを訊ねたり、一緒に弾いて遊んだりしていたらすぐ1時間くらい時間がたっていたのも楽しかった。昨日も儀礼の前に偶然しゃべった人が、ワヤンクリのダラン(人形使い)をやっていて、かつ月曜日に上演をやるという情報と彼の電話番号を得たりした(行きたいけど場所が滞在地からは少し遠いし今回は行けるか不明…)。言葉が通じるだけでできることの幅がめちゃくちゃ広がる。さすがに日本にいる時ほどの自由さはないけど、それでもずいぶん、自分で選んで行動できるようになった。
 
バリに来た、とはいっても、ビーチでのんびりとかスパでゆっくり疲れをとります!ヨガします!みたいな休暇のバリっぽい過ごし方はしておらず、バリの村で長年調査をしている大学のゼミの教授と学者のかたに同行させていただいて、村の儀礼に参列したり礼拝を一緒にやらせてもらったりしている。かなり日焼けしたしけっこう体力勝負だけど、めちゃくちゃおもしろい。地元の彼らにインドネシア語で質問すると丁寧に教えてくれるのもありがたい。また、わたしがジャワで一緒に仕事をしている先生の親戚がバリの人だということで、スマホで連絡をとって彼女たちのお宅へお邪魔したりもした。伝統的なバリの家を案内してもらった後「ちょっと行くと父の田んぼがあるんだけど見ますか?」と誘ってくれて、インディラさんというんだけど、彼女と二人で田んぼを見に行って、そのへんの木(anggurというツル系の木、南国っぽい花が咲く)から果実をもいで、割って食べたりした。酸っぱい!!と笑い合った。涼しくて空気が美味しくて、たまに豚小屋の臭いがするけど、でも気持ちよかった。pisang(バナナ)の木が田んぼの合間に並んで植えてあった。彼女は「ココナッツは、インドネシア語ではKelapaだけど、バリ語ではnyuhだよ」と教えてくれた。通じるからってずっとサボって「ココナッツ」と英語で呼んでしまっていたけど、なるほど、ニュッって呼ぶんだ、かわいい。ニュッと生えてるしな………………
落ち着いた声で英語を混ぜてわかるように喋ってくれるので話しやすくてありがたかった。姿勢のいい素敵な人だった。バイクでここの道を下っていくのが好きで、よく来るんだ、と言っていた。
 
 
地元のバリの様子を見せていただけるのは本当に興味深くて、かつ、先生たちが日本語で教えてくれるので情報量が半端でなく、脳が追いつかない。そのなかで聞いて印象的だったのだけど、詩の詠みあいとか、お面を作るとか、踊るとか、ガムランを演奏するとかワヤンクリを演じるとか、そういったことを、村の人たちは、大抵ひとつやふたつ、できる。複数の特技を持っている人も少なくない。そして例えば村長に求められる素質の1つとして「良い詩が詠める」とかがあったりするらしい。もちろんそれだけではないだろうけど、そういう特技がちゃんと社会的に認められるというのは良いなと思った。彼らは、各個人も芸術と一緒に生きているけど、村という単位でもそうなのだ。それがすごい。芸術が村の仕組みにまで関わっている。
 
ここのそういう世界観はかなり魅力的だ。芸術的な才能がないとしんどいという意味では、かえって厳しい世界かもしれないけど、あらゆる芸術のことを愛して、生活の中で普通に実践している人たちが大勢いるというのは、間違いなく素敵なことだ。これはさすがに言い切りたい。素晴らしいです。
 
今わたしに見えているのはバリのほんの一面だけで、バリにもバリなりの問題が色々あるだろうから、手放しに「バリはサイコーな場所ですね!羨ましい〜!」なんて言うつもりはないけど、興味深いことがとてもたくさんあるし個人的にめっちゃヒントをもらっている。
バリで観ておもしろかったもの、考えたこと、多分また別の記事で書いたりします。(特にワヤンクリがやばい気がしています…)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

すげえ怒ってる

どうしても書いておきたいまとまらない気持ちなのですけど
外国人技能実習制度のこととか、入国管理局の件
 
それについて、ただでさえ憤りながらニュースを追っていたんですけど、いつもインドネシア語を教えてくれる友達が春から日本へ行くらしくて、今日その詳細を聞いたら、思いっきり件の外国人技能実習制度だった。
 
えっちょっと待って、なんていう制度で働くのか教えて、と聞いて、ハラハラしながら略称をググッて、ニュースで見慣れた文字列を確認した瞬間、顔と体がこわばってしまった。
 
彼はとても日本語が上手で賢い人だから、と、漠然と全然心配していなかったけど、日本で話題になっているほどの情報はどうやら彼のところにはそもそも届いていない。わたしが知っている範囲で話をしたところ、そんなにヒドイことがあるの?!と驚かれた。スマホで日本語のページをくっているわたしを見て「漢字が多くて難しいね…」と言っていたけど、正直いってこんなの日本人にとっても難しいです。必死で言葉を選びながら説明するわたしの様子から、マジらしいと察した彼がだんだん真顔になるのがきつかった。
 
そうしながら、ニュースで見た入国管理局の施設で亡くなった人たちの出身国に「インドネシア」の文字が(わたしの見た範囲では)ないということに、心のどこかでホッとしていた自分がいたのを思い出していた。あれはもう完全に過去のホッとになってしまった。
 
わたしは今回話題になったことで初めてこの件を知った人間で、偏った情報ばかり仕入れている可能性もある。実際、すでに先に日本で実習をしているという、彼の友達のインスタを見たところ、普通に生活をエンジョイできているみたいだった(お台場とか秋葉原とか色々遊びに行っている様子だった)。外国人技能実習制度に関しては、全部が全部、100パーセントがニュースで聞くようなヒドイ現場というわけではないようだ。でも、もし、今目の前にいるこの人が、日本に期待して旅立って、一度も帰国できない三年間の実習生活や、その後の人生までもうまくいかなくなってしまうようなことがあったら、と想像したら、怒りと心配を中心とした色々な感情で腹が熱くなった。珍しくちょっと良いコーヒーを飲んでいるのに全然味どころじゃない。
 
とりあえず「あなたには絶対に幸せになってほしい」「悪い会社には気をつけて」とどうしようもないことしか言えない自分が情けなかった。もし、まずい現場で働くことになって途中でやめて帰るためにお金が必要になったら全部わたしが肩代わりするからね!と言えるくらい、自分がお金を稼いでいたらよかった、とバカな想像をとりあえず一回した。
 
 
 
その彼は、大学でかなり熱心に日本語のことを研究していて、先々週、卒論の提出が済んだところだ。わたしは知り合ってからずっと、時々会ってはそれを手伝っていたのだけど、言葉の細かいニュアンスの違いにまで興味を持って質問されることも度々あって、細かすぎてうまく説明できず困ったこともあった。その卒論が、無事にとても良い評価を得たという報告をもらった時にはめちゃくちゃ嬉しくて、いつもはインドネシア語でやりとりをするのに日本語で散々喜んだ。彼は「働いて少ししたらまた大学に戻って勉強がしたい」とまで言っていた。こんなに真面目で賢い人が、日本の工場で、人権ゼロで、奴隷のように働かされるようなことが、あってたまるかよ。絶対許せないだろ。もちろん、全然そうと決まったわけじゃないんだけど、でも今わたしは「絶対許せない」なんて強い表現を全く誇張でなく、煮え繰り返る腹の底からここに書いている。
 
インドネシアでは高校の第二外国語の授業として日本語が選択できるようになっていたり、必修で週一の授業がある学校もあったりして、感覚的には、日本人にとっての中国語よりも身近な言語だと言えると思う。日本語の学習に関しては、先生のための日本での研修制度などもあって、日本から少なくない支援がある。そうやって、将来は日本語を使ったらしっかり稼げるぞ!というイメージを育てているのだ、日本政府が。生徒も先生も「これは日本ではいくら?」とよく聞いてくる。日本はお金持ちの国だという認識なのだ。(実際、日本とインドネシアを行き来しながら自分で立ち上げた会社でしっかり稼いでいるおっちゃんにも会った、彼は、高価すぎる故にインドネシア人がほとんど持っていないipadiphoneを持っていた)そしてその国が、以下略、だ、最低だ。
 
今晩心がぐちゃぐちゃになっている理由の二つ目がこれだ。

今まさに、わたしは、ことの一端を担ってしまっている。今日で学期末の成績も全部返されて明日から高校は休みに入るけど、一月からわたしはまたここで日本語を教える先生の手伝いをするのだ。
 
 
 
現状、今の自分には「気持ち」しかない。何ができるんだろうと考えて己のあまりの非力さにびっくりする。不安とか心配とかやりきれないナとか、色々混じった気分だけど、かなりの割合で怒っている。俺は怒っています。もうなんかねだめです、ひどい、語彙なくなる絶対に絶望しちゃだめだと思いつつもしかしあああ
 
怒りそのものについて書きだすと言葉が乱れるのであとはノートに書きます。
現場からは以上です。




 

木を見ることについてと、景色を見たことについて

 
走行中の乗り物から、窓の外を流れて行く景色を見るのが好きだ。昔からずっと好きだけど、異国でのそれは輪をかけて楽しい。
町の看板の文字がだんだん解読できるようになってきたのも楽しいし、人が!あんなところに!?と二度見したくなることも多い。自分で運転ができたらどれほどいいだろうと毎日思う。まあ、景色に関しては本当にあらゆることがおもしろいんですが、今回は木々を見ることについて書きたい。
 
日本にいた時、わたしは集合住宅などの庭の木や花の世話をする会社でバイトをしていた。あんまり日数は働けなかったけど一応三年ほどは続けて、本当によかったと思っている。あの仕事のおかげで、だいぶ、草木を見分ける力がついた。窓の外をビュンビュン流れていく景色のなかの緑色を見る時、その緑が漠然とした一色ではなくて、「さっきもあったあの木だ」とか「もうこの花の季節か」といったように、気候や季節を肌感覚だけではなくて情報っぽく受け取れるのがおもしろい。名前はわからなくても、あの時にあそこにあった、あれと似た種類のあの木……、と覚えておける程度の解像度はある。
 
今年の春に韓国へ行った時、川沿いの公園で梅の花が咲き始めているのを見た。日本はもう桜が咲き出している頃だったけど、韓国のほうが少し寒いので時期がずれる。でも梅はある。わたしは、外国はほぼアジアしか行ったことがないので地球の他の地方のことは知らないけど、少なくともアジアのこの辺りの草木は共通しているものが多くて、国は違っても海を隔てても土地の質感が地続きだというのがわかって、なんとなく嬉しい。台湾へ行った時にもインドネシアへ来た時にも立派なガジュマルがそのへんにたくさんあって、それを見つけては「沖縄以南だな〜」と思っていた。竹にまつわる昔話が残っている地域も、インドネシアやフィリピン、台湾をつたって日本まで伸びているというのをかなり前に先生から聞いた。
植物は「面」という感じが強い。べたーーっと広く、地面にはりついて生きるのは、人間の自分とは全然ちがう。やつらは場所との相性が直に自らの生死を左右する仕組みで生きているので、人間よりもずっと切実に場所と共にある。地面を離れたら自力では生きていけない。木の在り方は、ほぼ場所だ。
 
そして、ここへ来て景色をみている実感として、インドネシアの道端にある草木と、日本で見かける草木とは、意外とかぶっていない。竹はあるし、イネ科っぽい雑草もあるし、山の上へ行くと松もたくさんあって、似ているものもそれなりにあるけど、少なくとも私の今滞在しているAmbarawa周辺の木々は、ほとんどが日本では見かけないものたちだ。そういうわけで珍しがってよく見ているせいか、最近は街で見かける木々の顔ぶれが徐々に把握できてきた。
 
いつも通る道の曲がり角にあるあの木と、校庭にある大きなあの木と、ゲストハウスの中庭にひょろっと高く伸びているあの木とが、みっつともよく似ているな…とある時ふと思って、次に見る時に意識して確認していったら、全部同じものだと先日わかった。名前はわからないけど、傘のようにひょろひょろと垂直に幹を伸ばし、てっぺんでワッと枝葉を広げる形が特徴的だ。
あと、この辺りには、所々にコーヒー畑がある。少し山を登ったところの村に、カフェを併設しているコーヒー畑があって、遠いけど気に入ったので、二回行った。カフェは静かで涼しくて、素人のわたしでもわかるくらいコーヒーが美味い。そこでコーヒーの木(収穫のために背を低く抑えて剪定してある)の姿を見て覚えていたら、後日、時々通る大きい道路のわきにたくさん生えているのが全部コーヒーの木だ!!とわかった。その近くにもやっぱりコーヒーを売りにした観光スポットがある。その知識も備えて引き続き車窓からよく見渡してみたら、そのへん一帯がみごとに全部コーヒー畑だった。なぜかコーヒーに混じって他の背の高い木も植えてあるので、ぱっと見た印象が畑っぽくなくてそれまで気付けなかったのだけど、同じ木がたくさんあるな…と思っていたのが、コーヒー畑だとわかってちょっと誇らしいような気持ちになった。地図に色を塗りたい気分だった。
 
また、果物が生る木はパッと見てすぐわかる。一番よく見かけるのはマンゴーとココナッツとバナナ。ジャックフルーツもよく見る。かなり巨大なトゲだらけの果実は迫力があっていい。ドリアンもそこそこ見かける。ちょっと珍しくて、見かけると「オッ」となるのはカカオだ。木の枝に直接、カカオの実がプリッと生っていておもしろい。
 
日本語の先生が「あそこにドリアンの木があるでしょ」と校舎の2階から遠くを指差して教えてくれたことがあった。庭先の木から小さくてすっぱい赤い実をとってくれたこともあった(しぶくてすっぱくて美味しくなかった)。生物の先生も「僕のうちにはランブータンの木があるよ」とか「あの先生のうちにはドリアンの木があるのでそれをこの時期はみんなで買うんだ」と言っていた。一緒にいただいたそのドリアンは、旬ということもあってか、明確に美味しかった。今までドリアンを食べた時は、慣れない味すぎて好きとも嫌いとも言えないなあと思っていたけど、美味しいドリアンは美味しいんだとわかって、それはけっこう嬉しかった。
ここでは人と木の距離がとても近い。果物の生る木が多いから、木を見分けることがごく普通のことなのだろう。
日本で暮らしていて、わたしはあのバイトをしていなかったら、今ほど木に興味を持っていなかっただろうし、木の見分けなんてついていなかったと思う。日本の街中にあって気軽に実を食べられる木といったら秋のイチョウくらいで、街路樹の名前がわかるとか、そういうことは自分の生活や命とあまり関係がない。でも、ここでは関係がある。一年中、あらゆる木に生る実を食べられるからだ。食べることが、木と人の距離を縮めている。みんな、どんな風に果実が生っているのか分かって食べている。前回、動物と人が近いような感じがするというようなことを書いたけど、こちらの飲食店の看板は料理の写真よりも動物の絵が描いてあることが多くて、みんな自分が食べている肉がもともとどんな生き物だったのかちゃんと分かって食っている感じがする。だいたいの鶏肉は骨つきだし。
 
 
 
 
 
木を見ることとは違う話になるが、先日、少し遠くの釣り堀のようなところへ、友人の家族に連れて行ってもらった。日本でいう川床のような、高床になっているところでナマズを食べ、小さな池でアヒルボートを漕いで遊んだ。食べている途中で強い雨が降り出すし、朝からずっと曇っていてかなり寒くて、わたしは体調もあんまりよくなかったので大変だったのだけど、その帰路がすごくよかった。
 
さっきまでの雨が小雨になって降り続いていて、依然として肌寒い。でも、胃は痛いし悪路も続いていて酔いそうだったので、わたしはメガネに水滴がつくのはすっかり諦めて、顔を雨と風にさらして窓の外の景色を見ていた。
わたしたちを乗せた大きな車は田舎道をガシガシ走って、森のようなところにある古い家々のあいだを抜けて、鶏が歩いているのを轢きそうになったりしながらどんどん進んだ。ひとしきり走った頃、木々や家々の間を抜けると、そこは広々とした田んぼだった。すでに収穫の済んだところとまだのところとが混ざっている。少し遠くのあぜ道にはとても背の高いヤシの木が並んで立っていて、さらに向こうのほうには、山がみっつほど重なり合って彩度の低い青のグラデーションをつくっていた。そこに白っぽい霧のような雲が低く漂って、早朝みたいな静けさだった。山は、どっしりと重たそうに霞んで、巨大だった。
 
急に景色が開けてそれらが目に入った瞬間、すごく気持ちが良くて、ワア〜〜!と声がでた。続けてわたしは「indah...!」と低めの声で呟いた。自分の口からふわっと出て来たそのインドネシア語が、なんだかじんわりとした質感をもっていて、心がちょっと立ち止まった。
 
 
少し前に「indah」は景色に使う「美しい」で、人には使わないんだよ、と友達が教えてくれた。(人が美人だとかいう時には「cantik」という。)その後、すでに何度か景色が見事だった時に「インダァ!」と言ってきたけど、あの車窓からの眺めを前にした時、あれが、わたしにとって、初めてちゃんと本当の「indah」が言えた瞬間だった。
 
正しい発音ができたかどうかとかは全然わからないし運転をしていた友人の父も助手席にいた友人の母も、「そうだねえ山だねえ」みたいな反応だったけど、わたしは一人でけっこうグッときていた。
インドネシア語の「h」の発音は日本語にはないのでちょっと難しくて、意識して丁寧に発音しようと心がけてきたのだけど、この時ほどこの「h」の存在感がしっかりと胸に染みたことはなかった。なんというか、その景色を前にした感動が、語尾の「h」の、ため息みたいな低い声にまでのった気がした。口から出た音と、目で見た景色とが、ついにちゃんと結べたような感触があった。「インドネシア語で景色が見えた」と言ったら言い過ぎかもしれないけど、それくらいの感動だった。
 
 
その、ほんの一分くらいの出来事に、わたしはすっかり心をもっていかれて、道が変わって景色が見えなくなるまでの数十秒、顔にあたる小雨と風の強さに目を細めていた。体だけじんわり暑くて、顔は雨と風で冷たいのがちょっと可笑しかった。