わたしが観たワヤン・クリ

年末にバリで観て、やばさがよくわかってスッカリ惹かれてしまっている芸能がある。Wayang kulitだ。カタカナだとワヤン・クリッとかワヤン・クリとか書かれる、影絵の人形劇である。牛の皮(kulit)を切り抜いて穴を開けたり着色したりして作った精巧な影絵人形の数々(125体以上ある)を、ガムラン等の演奏をバックに、ダランと呼ばれる人形遣いが操る。彼は、歌、語り、色んなキャラクターのセリフ、楽団への演奏指示まで、すべて一人で行う。マレーシアにもあるらしいが、インドネシアではジャワとバリのものが有名で、観光ガイドにもよく載っている。
 
このワヤン・クリ、以前から存在こそ知ってはいたものの、実際にちゃんと見たのは今回の滞在が初めてだった。(インドネシアに今まで2回も来ておきながらなぜ観ていなかったのかマジで疑問……)今回は、この滞在の前半で見たワヤン・クリと、多少なりとも関係のあることなどを振り返って全部書く。
 
 
 
 
まず、10月20日。土曜の晩に、家から車で30分ほど行った近場の山あいにある村(Sumowonoという山のJubelanという地域)で結婚式にあわせてワヤン・クリの上演があるという情報を、派遣校の先生から得て、生徒たちと一緒に連れて行ってもらった。
会場は、住宅地のあいまにあるちょっとしたイベントができる広場だった。足元は地面なので土だけど、客席の最前列だけは関係者の偉い人たちが座るソファ、あとは全部プラスチックの椅子が並べられており、80人以上は座れるだけの席があった。結婚を祝うということもあって、ワヤン・クリが始まる前にもダンドゥの演奏・歌唱があったり、地域の高校生たちによる合唱があったりした。(最近はお金がかかりすぎるという理由で結婚式にワヤン・クリを呼ぶことはかなり減ったらしい)
20時ごろから始まるということだったのでその頃に向かったけれど、ダンドゥや合唱があったので、ワヤンクリが始まったのは21時を過ぎていた。楽団はなかなか大所帯だった。低めに組まれたステージに、ガムランや太鼓が所狭しと並べられて、Rebabというバイオリンのような楽器や竹笛など、多くのインドネシアの伝統楽器があった。ステージに椅子はなく皆あぐらをかいて座っている。
肝心の影絵芝居なのだけど、なんと、ここでは全く影を使わなかった。本来は白いスクリーンの向こう側から影を見るのが影絵だけれど、この日のスクリーンは、観客から見て舞台の一番奥に配置され、ダランは終始客席に背を向けて上演をするのだった。幅5メートルはあろうかという大きな白いスクリーンの両側に、美しいワヤンがずらりと並んだ様はとても見事だったけど、影、使わないんだ…??と不思議だった。でも演出がかなり派手で、時々色のついたライトがチカチカしたり、ダランも、ワヤンを投げて一回転させたり、ワヤンの腕を持ったままグルグル回したりしていた。よく壊れないな、と思った。ただ、PAがひどくて(楽器が多くて難しいだろうとは思うけど)、ダランの声をひろうマイクだけが暴力的なほどの音量で鳴っていて、かつ低音がめちゃくちゃきつく効いていて、せっかく演奏しているのにRebabなどの繊細な音はほとんど聞こえなかったし時々顔を後ろに引くくらい爆音になる瞬間があってつらかった。あと、ジャワ語なので、なんて言っているのか全くわからなかった。途中、楽団員たちの休憩のために、紙製の箱に入ったお弁当と水とタバコが配布されるのが見れたのはおもしろかった。基本的にダランはほぼ休みなく人形を動かしたり歌ったりしているのだけど、楽団はずっと演奏しっぱなしではなくて、わりと休んでいる時間がある。
車で連れてきてくれた人の眠気が限界になりかけていたので、引き剥がされるようにして24時半ごろに引き上げた。山の上なのでかなり寒くて、これを朝4時まで観る人はどれくらいいるんだろうと思った。
 
 
その後、ワヤン・クリではないのだけど、12月1日の晩にSalatigaという隣町のTaman Tingkirというおそらく市営の公園で、Kethoprakという演劇を観た。広い公園の一角にテントとステージが建ち、Kethoprakの前には地元の中学生や小学生によるダンスやカラオケも行われた。少しだけだけど屋台も出ていた。見ている人も演じている人もみんな地元の人という感じの小さな催しだった。
Kethoprakというのはジャワの大衆演劇で、時々笑えるシーンがあったり派手な殺陣があったりして、客席も盛り上がってワイワイ見るタイプの芝居だ。ただ、セリフの全てがジャワ語で、しかも王宮で話される丁寧語・謙譲語で話されているという点ではかなり硬派である。ほぼ古語みたいな感じで、インドネシア人にとっても難しいという。もちろんわたしは殆ど何を言っているのかわからなかった。後から聞いたところ、この時のストーリーは、王様の後をつぐ人が必要になり、腹違いの兄弟が家同士でモメるというものだった。最終的には心が清いほうが勝つ。ワヤン・クリでよく上演される「バラタユダ」という物語とよく似ている(が、関係ないらしい)。そして、悪役の顔が赤いのもワヤン・クリと同じだった。俳優は皆、かなり濃い化粧をしていて、悪役の人は顔全体がお面のように赤く塗られていた。怒っているので赤い、ということらしい。(なおワヤン・クリには顔が赤いけど心が清いキャラクター、Baladewaというのもいる)
ちなみにこの時に友人(音楽の先生)が出演しており、主人公を演じていた。悪いやつをバシバシやっつける殺陣とかしててスーパーヒーローみたいなキャラでつい笑ってしまった。始まる前に彼が案内してくれて、テントから少し離れたところでみんなが化粧をするところを覗かせてもらえた。ちゃんとメイクさんがいて、おじさんたち(出演者は全員おじさん)が彼女の手にかかってすごい顔になっていくのはおもしろかった。伝統的な芸能に関しては、上演すると市からお金がもらえるらしい。
 
 
また、12月22日には少しスラカルタ(通称ソロ、バティックやワヤンが盛んに作られているナイスな街)へ行く機会があり、弟さんがワヤン・クリの人形職人だという人に、ワヤン・クリで演じられるラーマーヤナやバラタユダなどのジャワの古典的な物語の、特にバラタユダのことをたくさん教えてもらった。おおまかなストーリーと主な登場人物の名前や性格などを聞いた。
なかでも、特に面白かったのは、Semarの話だ。ジャワの人たちは、この物語のなかに登場するSemarというキャラクター(王家の家臣のひとりで、正義に溢れた教育をする謙虚な性格の太ったおじさん)が好きで、Semarは俺たちのジャワ・スピリットだ!みたいなことを言っていた。mengasuh(養育する、世話を焼く)と、rendah hati(謙虚な心)が大事なのだそうだ。なるほど、ジャワの人(ジャワの人しか知らないけど)はいろんなことを熱心に教えてくれる…。実際どれくらいこういう心意気をみんなが持っているのか知らないけど、「ワヤン・クリは子供達のモラルの教育にもよい」と言っていた。多くの人が子供のうちからこの物語を聴いて育っているのだろう。
また、少なくとも私の滞在している地域に関しては、このSemarというおじさんの彫刻がかなり色々な場所に置いてある。店の前に置かれていて、首から「Buka(Open)」の札をかけていたりもして、愛嬌がある。よく太ったおじさんの彫刻があるけどあれはなんだ、とずっと思っていたけど、これだった。
 
 
そうしてかなりザックリした基礎知識を仕入れて、バリへ行った。
 
 
バリでは、12月27日と28日に、ふた晩つづけてワヤン・クリを観た。
27日に観たほうは、とても小さい会場だった。ウブドの「Pondok Bambu Music」という、楽器と、ワヤンもちょっと売っている店の奥に、壁の一部がスクリーンになっていてその奥に小さな小部屋があるというワヤン・クリ専用のスペースが設えてあった。わたしはネットで情報を得て一人で来た。毎週月曜日と木曜日の夜8時からやっているというが、その日の観客は6人だけだった。スクリーンもジャワで見たものに比べるとだいぶ小さい(三分の一くらい)。上演が始まってしばらくした頃、係のおじさんが「舞台裏もどうぞ見てください」と言って、スクリーンの向こうの小部屋へ続くドアを開けて、観客たちにスクリーンの裏側を観せてくれたが、ガムランの楽団も、たった4人だけだった。ガムランが4人、ダランが1人、ダランの助手(次に使う人形や使い終わった人形を受け渡す係)が左右に1人ずつで、計7人による上演だった。そして一切のPAがなく、完全に生音だった。ダランの頭上(というか顔の前)に釣られたランプの明かりは本物の火で、とても明るかった(ここでは電球も補助的についていた)。この火によって、スクリーンのダラン側の演者たちの手元は照らされ、客席側には影が浮かび上がる。
ダランは、右足と左手に木でできた槌(cempalaという、手のひらサイズの、木槌の先だけみたいなもの、きちんと彫刻してある。)を一つずつ持ち、あぐらをかいて座り、自分の左に置かれた大きな木箱(上演が終わるとこの箱にワヤンをしまう)を時折カッカッカッ!!と叩いてかなり大きい音を鳴らす。これでキャラクターの足音などを表現したり、時々拍子木のように雰囲気を出したりしていた。この音がガムラン隊への指示出しにもなっているらしい。ダランは次々とワヤンを持ち替えて物語を進めていくのだけど、スクリーンに新しくキャラクターを登場させる前に、ワヤンを両手に載せたまま歌を歌っているのが、魂を吹き込んでいるみたいに見える瞬間があって、けっこう魅入ってしまった。
楽器屋の前を通るバイクや車の音がうるさいのが本当にもったいなかったけど、その難をさしひいてもなお、エキサイティングな約1時間だった。ダランの演技はとても激しくて、時折ワヤンでスクリーンを叩くような表現もあった。矢が飛んできて死ぬみたいなクライマックスのシーンでは、普通に「わ!死んだ!」と思った。いつのまにか素直に夢中になって見ていた。
 
 
28日に観たワヤン・クリは、Oka Kartini という、いいホテルに併設された劇場と専属の劇団によるものだった。そこにはワヤンクリの会場のみならず、ワヤンやそれに準ずるあらゆる工芸品が並んだギャラリー(ワヤン作り体験もできるらしい)があったり、お土産屋さんはさながらミュージアムショップで、バタック族(スマトラ島の民族)の呪術のための古い本(木の皮にバタック語で書かれていて蛇腹折りになっている)がおしゃれなアクセサリーやクッションカバーに混じって売られたりしていた。(一緒に行った大学の教授は、こんなとこに売ってて素手で触っていいのかよ、と気にしていた。)
ワヤン・クリは、ステージこそ小綺麗だけれど編成などは同じだった。でも今回は始まる前から、ダランの様子を徹底的に観てみようというつもりで、わたしはほとんどずっとスクリーンのダラン側にいた。この時のランプは、先日のと違って補助の電球もなく、本当に火だけだった。始まる前、チャナン(お供え物、花や線香やお菓子をヤシの葉でできた小さなお皿に載せたもの。毎朝人々がこれを家や店の前に供えてお祈りをするので、バリでチャナンを見ない日はない)を置いて、線香を炊き、お祈りをしていたし、終わった後にワヤンをひとつひとつ箱にしまう時にも、特に重要なものについては、その絵柄を味わうように眺め、クルクルと回したりしてから丁寧に祈るようにしまっていた。ちょっと厳かだった。大きくて、閉めたら中は真っ暗になるであろう木箱は、棺桶みたいだった。しまう前に、ダランは自分の頭上にあるランプの火にワヤンをかざしてクルクル回すのだけど、あれはほとんど炙っているよなと思う。牛の皮でできているんだし、カビとかの予防になっていそう。(ちなみに下手なダランはワヤンを焦がしてしまうらしい)
観光客へ向けたパフォーマンスなので、時々セリフが英語混じりなのは27日に観たものもそうで、若干の惜しさがあったけど、意味がわかるので劇として楽しめるというありがたさもあった。なお、Oka Kartiniでわたしが観たダランは、ドナルドダックみたいな発声が得意技らしく多用していた。
 
この日は、特に印象に残った瞬間があった。ダランが、次に登場させるワヤンを手にとって、いままさにスクリーンに当てようとする直前、間を持たせるみたいに歌声を長く伸ばしていたのだけど、なんというか、当たり前なんだけど焦りは全然なくて、たっぷりとした間をもって腰から上が前かがみになるのが、なんだかすごくよかった。その、名前のない隙間のような時間にも途切れることなく表現が続いていることにグッときた。27日に見たワヤン・クリの時にも思ったけれど、口も両手も足も使って、朗々とした歌と早口の語りと踊り(人形を操作する両手はほとんど踊っている)と演奏(木箱を叩く)をしているのがあまりに凄まじくて、きっとこれは神様だなあというふうに思ったけど、ぴったりくる言葉がない。神様と言ったら違うと言われてしまうんだろう。
 
うまく言えないけど、ダランは、かなりやばい仕事だと思う。その日上演する内容は、始める直前にお祈りをして降りてきたものをやる、という噂も聞いたことがある。噂だけど。ダランをできる人というのはその社会において特別な存在で、とても尊敬される人なのだそうだ。それに、ジャワのダランはこのノリで一晩中やるんだから、やばい、ぶっ飛んでいる。
ちなみに、次々とお面を変えながら演じるトペン・ダンスというのがバリにあって、これは今回観られなかったのだけど、色々な声色を使うという点でダランと共通点があり、ダランとトペンのダンサーを兼ねたり、仕事を変えたりすることはしばしばあるらしい。
あと、この日観たダランの顔の前にあるランプには、よく見ると彫刻が施されていて、どうやら顔のようだった。(この後ジャワで観た時にもよく観たらやっぱり彫刻があって何かを象っていた)なんの顔なのかはまだ不明だけど、顔の前で、顔の彫刻の施されたランプで火を焚いている、という状況を想像すると、まあ熱いだろうし、意味的にも凄みがある。上演中、ずっとその顔と向かい合っているのだ。全てを照らしている火の顔と。それに、あの様子では、ほとんど視界は自分の手元だけだろう。目の前のスクリーンと頭の中の物語と、鳴っている音、自分が鳴らしている音に没入するために、意図して仕組んでいるような気がする。ランプとダランの顔の距離は、見たところ場合によってけっこう違うけど、バリで観た二つはとても顔に近いところで大きな火を焚いていた。
 
 
そうしてすっかりワヤン・クリに感動して、ジャワ島へ戻った。戻ったその晩、1月1日に、滞在中のAmbarawaの近所の村、bejalenというところで、さらにワヤン・クリを観た。
 
バリへ行く直前に、このあたりを散歩していたら玄関先でワヤン・クリをいじっているおじさんがいて、一度は通り過ぎたのだけど、気になって戻って話を聞いたら、彼はダランで、さらに話を聞くと「1月1日にこの近所でやる」とのことだったので、観に来たのだった。こんなことがあるなんて、語学(そうはいってもボロボロ)をやっててよかった、散歩してよかった〜、と思った。ワヤン・クリをいじっていたのは、壊れたのを直していたのだそうだ。支柱の折れたところに接ぎ木をして糸で固定するという直しかただった。なぜ玄関先(外)でやっていたのか謎だけど、ともかくラッキーだった。
 
この日、1月1日は、この村のKadeso(村の誕生日、バリはオダラン、ジャワはカデソ)で、実は29日から4日間続けてお祭りをやっていたのだそうだ。ちなみに29日はkirapというお神輿のようなもの(川魚がとれる村なので魚にまつわるものらしい、魚を積み上げるというようなことを言っていたけど真相は不明)、30日はReog(大きなお面をつけて激しく踊るトランス)、31日はCampur Sari(綴りがあやしい、とにかく歌うと言ってた)、そして1日の今夜が最終日で、ワヤン・クリをやる、ということだった。
ワヤン・クリは20時から始まる、と近所の人が言っていたけど、開会前の挨拶とかそういうのがたくさんあって、本編が始まったのは21時だった。ただ、始まる前の一連のパフォーマンスが大仰でびっくりした。
まず、ステージ含め近くの灯りが突然すべて消えた。停電かな?と思ったけど、どうやら皆後方を気にしている。目線を追って振り向くと、松明を持った村人たちが10人くらい、2列になってゆっくり歩いて来ていて、その先頭では美しく着飾った少年が一人踊っている。彼が踊りながら向かって花道を進み、ステージの手前に辿り着いたところで、村人のひとりがダランであるハルソノさんに、ひとつワヤン・クリを渡し、今回の祭りの実行委員長とおぼしき、仕事のできそうなパリッとしたスーツの若いにいちゃんが「よろしくおねがいします……!!!!」みたいな感じでハルソノさんをがっちりハグし、そのタイミングで楽団がガムランを奏で、美しい音色が会場を包み込み、さあ〜〜!!!いよいよ始まります!!!という雰囲気に染まりきったところでようやくワヤン・クリが始まった。こんなに派手にオープニングがあるのは初めて見たので、笑えるシーンじゃないけど満面の笑顔になってしまった。
この日のワヤン・クリは、やっぱり影を使わないタイプのもので、かなり幅の広いスクリーンの両側にずらりとワヤンが並び、ダランは客席に背を向けている。そこまでは10月に見たものと同じなのだけど、この楽団は人数がとても多く、かつ演奏がおもしろかった。楽器隊のなかにも、インドネシアの伝統楽器のみならず、タンバリンやドラをめっちゃ楽しそうに叩くニイちゃん(あとで楽器を持たずにsinden歌手のマダムのひとりと踊りを披露したりしていて素敵だった)がいたり、時々トランペットも演奏されるし、女性の歌手(sinden)が6人もいた。女性の歌手たちの歌も、表拍と裏拍を1人ずつが担当して「アー」「オー」みたいなのを繰り返していた時があって、そんなのインドネシアで今まで聞かなかったので、斬新だった。ハルソノさんのワヤン・クリも、いきなり手作り感のあるワヤンが登場した時にはつい笑った。キリスト教の教会やイスラム教のモスクとおぼしき「建物ワヤン」だ。この時の物語は(わたしの理解が合っていれば)宗教が違う者同士も仲良くやっていける、みたいなものだった。(ムスリム的にそれってアリなのか?という疑問がある…。)時折スモークがたかれる(スクリーンの前、ダランの手元あたりにスモーク発生装置があった)し、ワヤンクリの合間合間に、地元の小学生や、若い女子や男子による伝統的なダンスがはさまる………地元の人による地元の人のための上演という感じで、小学生のダンスの時には親たちがいっせいにスマホを構えていて可笑しかった。
あまりにも派手で、もはやワヤン・クリの枠に収まっておらず、バリとのギャップも手伝って、わたしは終始笑いが止まらなかった。とても興味深いことが多く、でもそれ以前に笑いまくった。楽しい時間だった。
 
 
 
 
そう、ワヤン・クリの追加基本情報なのだが、あのスクリーンは、あの世と現世を分かっているらしい。ダランと楽団がいるほう、ワヤンの影ではなく鮮やかな着彩が見える明るい側が「あの世」で、その反対側、客席側の黒い影がうつるほうが「現世」だそうだ。女・子供は影を観て、男は鮮やかなほうを観るというようなことも聞いたけど今はたぶんそのルールについてはゆるくなっている。
バリでも、オダランという村の誕生日を祝う祭りがあって、その時に上演されるワヤン・クリは、スクリーンを使わずにぜんぶあの世側で上演することもあるという。ジャワで見た2回のワヤン・クリは、今のところ両方ともスクリーンを使わない、「みんなあの世側」バージョンだった。ひとつは結婚式で、もうひとつは村の誕生日kadesoだったので、やはり「みんなあの世側」はお祝いの意味が強いのかもしれない。お祝いで「みんなあの世側」をやるのってすごいな。あの世で過ごす練習だろうか。
 
 
 
そして、さらに昨日、ワヤン・クリに関してちょっとびっくりしたことがあった。
 
日本語の授業が先週から始まったのだけど、昨日の授業はテーマが「インドネシアと日本の住居の違い」だった。先生はジャワ語の教科書(日本でいう「古文」みたいに「ジャワ語」という科目がある)を開き、そこに載っているジャワの伝統的な建築を「みんな知ってるよね!」みたいな感じで例にあげつつ、日本とはずいぶん違うね〜といった話をしていた。
 
そして、これらの違いに関して気づいたことを生徒たちがノートに書いているのを待つあいだ、ジャワの家、気になるなあと思い、インドネシア語だったらちょっとわかるかも…と机の上に広げられている教科書に視線を落としたところ、どうも全部ジャワ語だった。全然読めなくて残念な気持ちになりつつも文字列をさらっていたら、「Wayang kulit」の文字を見つけた、えっ、えっ、昔は各家庭でワヤン・クリやってたのか?!!とびっくりした。バリかよ?!と脳内で雑なツッコミをいれてしまった(バリ、家によってはガムランのフルセットがあるし大体みんな何かしらの芸能ができる)
 
教科書のそのページには、家の敷地内にある建物の名前と、その機能が書かれていた。先生に確認すると、そのなかの、敷地に入って一番最初に現れる建物「pendhapa」で、しばしばワヤン・クリが行われていたという。でもそれは各家庭でというよりは、その家でお祝い事があると、ワヤン・クリの楽団を呼んで上演をするのだそうだ。ここではダンスもやると言っていた。夜通し自宅の広場(Pendhapaには天井と床と柱はあるけど壁がない)で、地域の人も集まって、影絵劇やダンスを観るの、めっちゃ良い………
 
ていうか、ちょっとバリと似てる(ジャワからバリへ人が移ったりなどもあってジャワ文化が形を変えてバリに残っているともいわれている)んじゃないの!と思って、バリの家は聖山を基準に方角が決まっているらしいけどジャワはそういうのあるんですか?とテンション高めに聞いたところ、日本語の先生には「わからないです」と言われてしまった。インターネットで調べるも要領を得ず、ジャワ文化に詳しい例の音楽の先生に聞いたらめっちゃ詳しく教えてくれた。わたしのインドネシア語が、やっぱり足りなくて時間がかかってしまって申し訳なかったけど、とても丁寧に教えてくれたのでそのうちバリのこととあわせて書くつもりです。
 
 
 
 
 
 
 
 

歌ったり喋ったりする動物として

 
だいぶ前になるが12月13日に派遣先の高校で文化祭があり、そこで歌を歌った。
歌ったその日とか次の日には、あまり思っていなかったけど、それからあっという間に2週間ほど時間がたって、あれ以前とあれ以後だなという感じがじわじわと強まってきた。
 
ちょっと恥ずかしいんだけど、わたしは人生をやっていて「第〜章が終わった感じがする」とか「〜編が終わった」みたいなことをよく思う。
なにかの上演を準備して本番を終えるとか、旅行に行って帰ってくるとか、所属していた組織を離れるとか、生きていると色々な頑張りに終わりがくる。頑張って何かに集中していた期間がパッタリと終わった時というのはだいたい呆然としてしまうし体には疲れがどっとくるんだけど、でも頭の中では、次にやることをワクワクしながら考えるのがはかどる。そういう時につい、例えば「ああ、2018年夏編が終わったな、次回からはインドネシア編だな」とか思う。章が大きく変わると「主な登場人物」とか「物語の舞台」も変わる。このために上演や旅行をしているわけではないけど、こういう風に捉えることで、ちょっとでもおもしろおかしく人生を自覚している。
 
今回の半年インドネシア滞在は、旅行というには長いけど、終わる日が決まっていることもあって、特にこの「〜編」の気が強い。今が全篇のなかの中盤あたりだ、とかを否応無しに自覚させられる。それで言うと今は第3章だ。ここへ来てすぐの生活に慣れるのが大変だった頃(1)と、慣れてきて景色も見えるし歌も歌えるようになってきた頃(2)と、だいぶ度胸がついて、人と喋る以上に遊んだり勉強したり仲良くなったり心配したり、本当に思っていることを人と話せるようになってきた今(3)とでは、やっぱり過ごしている時間の質が違う。今は、「文化祭バンド以後」の時間を過ごしている。
 
 
 
 
インドネシアの高校での文化祭は、わたしの知る日本の高校の文化祭とは少し違って、運動場に立派な野外ステージが組まれ、そこで音楽やダンスを有志のグループや個人で発表しあい、みんなはなんとなくそれを見たり見なかったりして1日過ごすというものだった。朝の7時30分から始まり、昼の14時ごろに終わる。最後のパフォーマンスは生徒たちが選んで呼んだプロのミュージシャンによるライブだった。
わたしはそのステージで、先生のバンドと一緒に歌を歌わせてもらった。とても陽気で優しいおっちゃんである生物の先生がリーダーになって、毎年先生バンドをやっているらしい。その先生とは一緒にギターを弾いて歌ったり、ギターをちょっと教えてもらったり学校の音楽スタジオでお互いがわかる歌(結局ジャズとかミュージカルのスタンダードになるのでアメリカ強いなと思う)を探してキーボードとベースを弾きながら一緒に歌って遊んだりしてきていて、「来月文化祭があるからバンドをやろう、何を歌う?」と誘ってもらったのだった。わたしはなぜか「ダンドゥをやりたいです!」と言ってしまったので、インドネシア語の歌を覚えることになった。
 
インドネシアに来てから、いろんな人に「好きなダンドゥの歌は何?」と聞いて流行の歌を仕入れてきたなかで、自分でもYoutubeで聴いておもしろかったのが「Jaran Goyang」という歌だったので、それを歌うことにした。
歌詞の内容は、恋人にフられた女が相手の男を呪術の力を借りてもう一度魅了して取り戻そうとする、というもの。去年リリースにも関わらず、いまだにダンドゥのテレビチャンネルやラジオで流れているので、ワルン(地元っぽいご飯屋さん)やアンコット(小さなバスだけど時々テレビがついている)でもよく耳にする。この曲はサビで同じメロディを違う歌詞で二回繰り返すのだけど、その最後のフレーズの歌詞が1回目と2回目で「Jaran Goyang」「Semar Mesem」になっている。これは、それぞれ、女が男を、男が女を魅了する呪術の名前らしい。知っていそうな人に五人くらい質問したけど、両者の魔法にそういう差異があると言う人と、ないと言う人がいた。断食が必要かそうでないかなど細かい違いがあるとかないとか。よくわからない。(ちなみにグーグルで「Jaran Goyang Semar Mesem berbeda(違い)」で検索すると、両者の魔法を比較というかぶつけあうみたいな検証?が出てくるので気になってるのはわたしだけじゃないみたい)いずれにしろ、両方ともジャワの恋の魔法で、怪しい呪術で、清く正しく生きている人はそんなことはやらない、というようなことは皆の共通認識だった。
 
そういう歌なので、歌詞のなかに時々ジャワ語が混じっていて、インドネシア語の辞書を引いてもよくわからない部分がままあるのだけど、とにかく音でまるごと覚えた。時々ちょっとラップみたいな感じになるので文字数がべらぼうに多いんだけど楽しい。「わたしの恋心は壊れてしまった」とか「この魔法もうまくいかなかったらあなたに毒をかける」(呪うという意味なのかも)とか、絶対に日常で使わないフレーズばかりだけど、知っている単語が混じっていたり、わかる単語と音が似ているけどジャワ語なのでちょっと違う、とか、いろんな細かい面白みがあった。Ngの発音は鼻濁音になるとか、細かい発音もちょっと教えてもらった。(インドネシア語ではほとんど使わない音だけどジャワ語にはしばしばある。)この歌で覚えた単語に、後になって違う場面で出会うことも時々あって、歌でインドネシア語を覚えるのは自分にとって良いなと思ったりもした。まあ、聖水(air suci)とか呪術師・シャーマン(Dukun)とかいった言葉にバリに来てから再会したくらいで、笑っちゃうくらい日常では使わないんだけど。
 
そう、以前、フランス語の歌を覚えて歌ったことがあった。もうそろそろ丸2年も前になるけど、ライブハウスで何度かシャンソンを歌わせてもらっていた時だ。フランス語なんて習ったこともないので、完全に耳コピの真の丸暗記で、相当メチャクチャだったと思う。でも、そんな、もう自分が何を歌っているんだかわからないような状態の歌のなかでも、「歌詞の意味的にも重要っぽいしメロディとか音楽的にも重要なフレーズ」というのはあって、そこだけは暗記した音を口の運動のように歌うのではなく、言葉として歌えるのが面白かった。歌の美味しいメロディのところに大事な言葉がくるのは言語を問わず同じだ。わたしは歌のこういうところが好きだ。他にも歌について好きな点はたくさんあるけど、わたしにとっては一二を争う好きポイントだ。
 
今回のインドネシア語のダンドゥは、わかる単語の量がフランス語とは段違いに多かったし発音に関しても比較的確信があったので、以前のシャンソンと比べたら、かなり言葉の実感があった。コードも二つしかなくメロディも単純で、歌詞を覚えることが歌を覚えることだった。
 
 
 
演奏は楽しかった。本番まで、バンドでの練習はあまりできなかったけど、生物の先生がかなりつきあってくれて、ギターと歌とか、カラオケとベースと歌だけで練習した日も多くあった。あとはとにかく一人で家で覚えて、当日はたぶん間違えずに歌えた。客席でたくさんの生徒たちが超ノリノリで踊ったりサビを一緒になって歌ったりしてくれて、楽しかった。あとから映像を観たら自分も変な動きをしていたけど、まあダサくてもなんでも、楽しければいいよなあと思えた。それくらい楽しかった。踊れるとか、ただただ楽しい!ってタイプの歌を人前であんな風に歌ったのはもしかして初めてだったかもしれない。
 
とはいえ、達成感というよりも「いつのまにか終わった」という感じが強かった。本番まであと1時間くらいあると思っていたら急に呼ばれて、え!もうやるの?!という気分のまま演奏をしたし、終わった後の余韻にひたる時間も全くなかった(写真すら撮らなかった)ので、とてもアッサリしていて良かった。ただただ歌を歌ったなあという感じ。軽やかだった。
 
 
 
そして、そのステージの終わりはそのまま今学期の終わりだった。文化祭の次の日に生徒たちは成績表をもらって先生と親と三者面談を行い、学校は12月の中旬から年始まで、休みに入る。
 
ここで少し友達自慢なのですが、ステージをへて一定の信頼を得たようで、音楽の先生(わりとしょっぱなで「大野一雄しってる?」と話しかけてきた人、教師以外に俳優や打楽器奏者をやったりしている。文化祭バンドではジャンベやカラカラ鳴るやつを演奏してくれた)とすっかり仲良くなった。職員室で机が近いので、それまでも比較的よく言葉を交わしていたし12月初旬には彼の出演していた演劇(ジャワ語の大衆演劇、kethoprak、コメディーお江戸でござるとか吉本新喜劇よりちょっとだけ硬派、みたいな感じ)も観に行ったけど、授業がなくなって休みに入ってからのほうがよく会っている。そして、彼は音楽の先生と俳優と打楽器奏者だけじゃなく、仲間と本を書いていたりするくらいジャワ文化に詳しい、ということが判明してからは、ジャワ文化に関して気になったことがあったらワッツアップ(LINEみたいなアプリ)で質問して教えてもらったりしている。インドネシア語とジャワ文化を同時に学べてめちゃくちゃ楽しい。また、彼の友達の楽器職人のアトリエに連れて行ってもらったり、仲間のバンドのレゲエを聴きに行ったり、こんど一緒にライブやろうぜとか、仲間と連れ立って音楽フェスへいく計画をしたりなどしていて、すっかり良い友人である。本当に大変お世話になっております、ありがとうございます…。
 
 
わたしは今まで生きてきて、歌(広義の歌、自作のパフォーマンスも含む)をきっかけに人との距離が縮むことが多かった。自分としても、他の何かよりも歌で距離が縮んだ人のことを信頼しがちで、この頃は「歌う動物」として生きているような気持ちがある。鳴く鳥みたいな…。(哺乳類ですが…。)
これ自体は、ただただ、そうだなあという感じなのだけど、いつのまにか、歌がなかったら出会っていなかったであろう大切な人たちがあまりに増えてしまって、もし歌がなくなったら、自分という動物には何もなくなってしまうんじゃないかという気がして時々恐くなる。
 
とはいえ、自分でも残念なのだけど「人のために歌っている」なんてかっこいいことはまだまだ到底考えられない。人と一緒に歌ったり音楽をやるのって宇宙まで飛んでいっちゃいそうなくらい楽しい!というのは半年くらい前にやっとわかったし、誰かに聴いてもらえるのは本当にありがたいし嬉しいけど、そういう風にして人と関わる云々以前に、一人で歌う歌が自分をとても支えている。
こっちのほうが多分、今は大事で、動物、という感じがするのもこれだと思う。繁殖以前に習性として歌っているような感じだ。一人で歌っている時の方が時間的にも圧倒的に多いし、時々それが、とても大事な時間になる。
自分が今までにいろんな場所で一人で歌った時のことは、よく覚えている。あまりにも多いしだんだん増えてきたので全部は覚えていないけど、とても印象的だった記憶はいくつかある。小4の時に部屋で初めて一人でこっそり歌の練習をした緊張感はまだ思い出せるし(学校で習う歌じゃなくてポップスをわざわざ練習するのが恥ずかしかった)、カナダにホームステイしていた時のキャンプ先で何かのタイミングで一人になって、山に沈む夕日の景色が美しくて嬉しくて、ちょっと勇気を出して歌ったこともあった(あれは言語的な孤独がつらくて自分のために日本語で歌ってたのかもしれないと今になって思う)。日頃、家で歌うのとか、自転車に乗って歌っていて一人で感情が振り切れていたいくつかの時間とか、カラオケで一人で歌って泣いたのとか、先日インドネシアに来て初めて部屋で歌った時とかも。ああいう時間があるから生きていける。
歌うとその声の響きで場所の物理的な環境がわかる、とか、自分の体のコンデイションがわかるとか、体内から出た声が環境と交わってまた耳から体内へ入ってくるのがエモいとか、言葉が体を通り抜けていくとか、深い呼吸ができて健康にいいです、とか、いろんなことがその時々で起きているので一概に言えないけど、ともかく、ざっくりいって、日々の中で歌を歌う時間のことが大事だ。
 
インドネシアでは、何かの宗教をもつのが国民の義務なのもあって、たいていの人が毎日お祈りをするので「ちょっとお祈りしてくるね」と待たされることが度々ある。それをはたから見ていて、毎日必ず一人になって落ち着く時間があるというのは精神安定に良さそうだなと思っていたけど、自分にとっては歌がそういう行為なのかもしれない。
 
 
 
そして、今はジャワ島を離れて、バリ島に来ている。
 
バリはジャワとは宗教が違うし、地元の言語も違う。でも、インドネシア語は同様に通じるし、特に今は観光地としても名を馳せているウブドに滞在しているので、むしろみんな英語が得意で、インドネシア語と英語を混ぜて話すというやり方でけっこうコミュニケーションがとれる。
わたしがインドネシア語を全然しゃべれない時から辛抱強く話し相手になり続けてくれた友人たちのおかげで、今まで全くできなかった「気になったことをすぐ質問する」が最近ちょっとずつできるようになっていて、依然としてボロボロながらも、自力で、インドネシア語で、目の前の人から多少の情報を得られるようになった。それが最近かなり活きている。
 
バリへ出発した朝も、とりあえずバスがくるターミナルへ行って、空港まで行くにはどこで降りたらいいのか?と係のオッチャンに聞いて正しいバスに乗れた時には、(本当は事前に調べるべきだけど)多少行き当たりばったりでもなんとかなるようになったことが嬉しかった。バリの楽器屋さんで、店のおっちゃんに、これがどんな楽器なのかを訊ねたり、一緒に弾いて遊んだりしていたらすぐ1時間くらい時間がたっていたのも楽しかった。昨日も儀礼の前に偶然しゃべった人が、ワヤンクリのダラン(人形使い)をやっていて、かつ月曜日に上演をやるという情報と彼の電話番号を得たりした(行きたいけど場所が滞在地からは少し遠いし今回は行けるか不明…)。言葉が通じるだけでできることの幅がめちゃくちゃ広がる。さすがに日本にいる時ほどの自由さはないけど、それでもずいぶん、自分で選んで行動できるようになった。
 
バリに来た、とはいっても、ビーチでのんびりとかスパでゆっくり疲れをとります!ヨガします!みたいな休暇のバリっぽい過ごし方はしておらず、バリの村で長年調査をしている大学のゼミの教授と学者のかたに同行させていただいて、村の儀礼に参列したり礼拝を一緒にやらせてもらったりしている。かなり日焼けしたしけっこう体力勝負だけど、めちゃくちゃおもしろい。地元の彼らにインドネシア語で質問すると丁寧に教えてくれるのもありがたい。また、わたしがジャワで一緒に仕事をしている先生の親戚がバリの人だということで、スマホで連絡をとって彼女たちのお宅へお邪魔したりもした。伝統的なバリの家を案内してもらった後「ちょっと行くと父の田んぼがあるんだけど見ますか?」と誘ってくれて、インディラさんというんだけど、彼女と二人で田んぼを見に行って、そのへんの木(anggurというツル系の木、南国っぽい花が咲く)から果実をもいで、割って食べたりした。酸っぱい!!と笑い合った。涼しくて空気が美味しくて、たまに豚小屋の臭いがするけど、でも気持ちよかった。pisang(バナナ)の木が田んぼの合間に並んで植えてあった。彼女は「ココナッツは、インドネシア語ではKelapaだけど、バリ語ではnyuhだよ」と教えてくれた。通じるからってずっとサボって「ココナッツ」と英語で呼んでしまっていたけど、なるほど、ニュッって呼ぶんだ、かわいい。ニュッと生えてるしな………………
落ち着いた声で英語を混ぜてわかるように喋ってくれるので話しやすくてありがたかった。姿勢のいい素敵な人だった。バイクでここの道を下っていくのが好きで、よく来るんだ、と言っていた。
 
 
地元のバリの様子を見せていただけるのは本当に興味深くて、かつ、先生たちが日本語で教えてくれるので情報量が半端でなく、脳が追いつかない。そのなかで聞いて印象的だったのだけど、詩の詠みあいとか、お面を作るとか、踊るとか、ガムランを演奏するとかワヤンクリを演じるとか、そういったことを、村の人たちは、大抵ひとつやふたつ、できる。複数の特技を持っている人も少なくない。そして例えば村長に求められる素質の1つとして「良い詩が詠める」とかがあったりするらしい。もちろんそれだけではないだろうけど、そういう特技がちゃんと社会的に認められるというのは良いなと思った。彼らは、各個人も芸術と一緒に生きているけど、村という単位でもそうなのだ。それがすごい。芸術が村の仕組みにまで関わっている。
 
ここのそういう世界観はかなり魅力的だ。芸術的な才能がないとしんどいという意味では、かえって厳しい世界かもしれないけど、あらゆる芸術のことを愛して、生活の中で普通に実践している人たちが大勢いるというのは、間違いなく素敵なことだ。これはさすがに言い切りたい。素晴らしいです。
 
今わたしに見えているのはバリのほんの一面だけで、バリにもバリなりの問題が色々あるだろうから、手放しに「バリはサイコーな場所ですね!羨ましい〜!」なんて言うつもりはないけど、興味深いことがとてもたくさんあるし個人的にめっちゃヒントをもらっている。
バリで観ておもしろかったもの、考えたこと、多分また別の記事で書いたりします。(特にワヤンクリがやばい気がしています…)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

すげえ怒ってる

どうしても書いておきたいまとまらない気持ちなのですけど
外国人技能実習制度のこととか、入国管理局の件
 
それについて、ただでさえ憤りながらニュースを追っていたんですけど、いつもインドネシア語を教えてくれる友達が春から日本へ行くらしくて、今日その詳細を聞いたら、思いっきり件の外国人技能実習制度だった。
 
えっちょっと待って、なんていう制度で働くのか教えて、と聞いて、ハラハラしながら略称をググッて、ニュースで見慣れた文字列を確認した瞬間、顔と体がこわばってしまった。
 
彼はとても日本語が上手で賢い人だから、と、漠然と全然心配していなかったけど、日本で話題になっているほどの情報はどうやら彼のところにはそもそも届いていない。わたしが知っている範囲で話をしたところ、そんなにヒドイことがあるの?!と驚かれた。スマホで日本語のページをくっているわたしを見て「漢字が多くて難しいね…」と言っていたけど、正直いってこんなの日本人にとっても難しいです。必死で言葉を選びながら説明するわたしの様子から、マジらしいと察した彼がだんだん真顔になるのがきつかった。
 
そうしながら、ニュースで見た入国管理局の施設で亡くなった人たちの出身国に「インドネシア」の文字が(わたしの見た範囲では)ないということに、心のどこかでホッとしていた自分がいたのを思い出していた。あれはもう完全に過去のホッとになってしまった。
 
わたしは今回話題になったことで初めてこの件を知った人間で、偏った情報ばかり仕入れている可能性もある。実際、すでに先に日本で実習をしているという、彼の友達のインスタを見たところ、普通に生活をエンジョイできているみたいだった(お台場とか秋葉原とか色々遊びに行っている様子だった)。外国人技能実習制度に関しては、全部が全部、100パーセントがニュースで聞くようなヒドイ現場というわけではないようだ。でも、もし、今目の前にいるこの人が、日本に期待して旅立って、一度も帰国できない三年間の実習生活や、その後の人生までもうまくいかなくなってしまうようなことがあったら、と想像したら、怒りと心配を中心とした色々な感情で腹が熱くなった。珍しくちょっと良いコーヒーを飲んでいるのに全然味どころじゃない。
 
とりあえず「あなたには絶対に幸せになってほしい」「悪い会社には気をつけて」とどうしようもないことしか言えない自分が情けなかった。もし、まずい現場で働くことになって途中でやめて帰るためにお金が必要になったら全部わたしが肩代わりするからね!と言えるくらい、自分がお金を稼いでいたらよかった、とバカな想像をとりあえず一回した。
 
 
 
その彼は、大学でかなり熱心に日本語のことを研究していて、先々週、卒論の提出が済んだところだ。わたしは知り合ってからずっと、時々会ってはそれを手伝っていたのだけど、言葉の細かいニュアンスの違いにまで興味を持って質問されることも度々あって、細かすぎてうまく説明できず困ったこともあった。その卒論が、無事にとても良い評価を得たという報告をもらった時にはめちゃくちゃ嬉しくて、いつもはインドネシア語でやりとりをするのに日本語で散々喜んだ。彼は「働いて少ししたらまた大学に戻って勉強がしたい」とまで言っていた。こんなに真面目で賢い人が、日本の工場で、人権ゼロで、奴隷のように働かされるようなことが、あってたまるかよ。絶対許せないだろ。もちろん、全然そうと決まったわけじゃないんだけど、でも今わたしは「絶対許せない」なんて強い表現を全く誇張でなく、煮え繰り返る腹の底からここに書いている。
 
インドネシアでは高校の第二外国語の授業として日本語が選択できるようになっていたり、必修で週一の授業がある学校もあったりして、感覚的には、日本人にとっての中国語よりも身近な言語だと言えると思う。日本語の学習に関しては、先生のための日本での研修制度などもあって、日本から少なくない支援がある。そうやって、将来は日本語を使ったらしっかり稼げるぞ!というイメージを育てているのだ、日本政府が。生徒も先生も「これは日本ではいくら?」とよく聞いてくる。日本はお金持ちの国だという認識なのだ。(実際、日本とインドネシアを行き来しながら自分で立ち上げた会社でしっかり稼いでいるおっちゃんにも会った、彼は、高価すぎる故にインドネシア人がほとんど持っていないipadiphoneを持っていた)そしてその国が、以下略、だ、最低だ。
 
今晩心がぐちゃぐちゃになっている理由の二つ目がこれだ。

今まさに、わたしは、ことの一端を担ってしまっている。今日で学期末の成績も全部返されて明日から高校は休みに入るけど、一月からわたしはまたここで日本語を教える先生の手伝いをするのだ。
 
 
 
現状、今の自分には「気持ち」しかない。何ができるんだろうと考えて己のあまりの非力さにびっくりする。不安とか心配とかやりきれないナとか、色々混じった気分だけど、かなりの割合で怒っている。俺は怒っています。もうなんかねだめです、ひどい、語彙なくなる絶対に絶望しちゃだめだと思いつつもしかしあああ
 
怒りそのものについて書きだすと言葉が乱れるのであとはノートに書きます。
現場からは以上です。




 

木を見ることについてと、景色を見たことについて

 
走行中の乗り物から、窓の外を流れて行く景色を見るのが好きだ。昔からずっと好きだけど、異国でのそれは輪をかけて楽しい。
町の看板の文字がだんだん解読できるようになってきたのも楽しいし、人が!あんなところに!?と二度見したくなることも多い。自分で運転ができたらどれほどいいだろうと毎日思う。まあ、景色に関しては本当にあらゆることがおもしろいんですが、今回は木々を見ることについて書きたい。
 
日本にいた時、わたしは集合住宅などの庭の木や花の世話をする会社でバイトをしていた。あんまり日数は働けなかったけど一応三年ほどは続けて、本当によかったと思っている。あの仕事のおかげで、だいぶ、草木を見分ける力がついた。窓の外をビュンビュン流れていく景色のなかの緑色を見る時、その緑が漠然とした一色ではなくて、「さっきもあったあの木だ」とか「もうこの花の季節か」といったように、気候や季節を肌感覚だけではなくて情報っぽく受け取れるのがおもしろい。名前はわからなくても、あの時にあそこにあった、あれと似た種類のあの木……、と覚えておける程度の解像度はある。
 
今年の春に韓国へ行った時、川沿いの公園で梅の花が咲き始めているのを見た。日本はもう桜が咲き出している頃だったけど、韓国のほうが少し寒いので時期がずれる。でも梅はある。わたしは、外国はほぼアジアしか行ったことがないので地球の他の地方のことは知らないけど、少なくともアジアのこの辺りの草木は共通しているものが多くて、国は違っても海を隔てても土地の質感が地続きだというのがわかって、なんとなく嬉しい。台湾へ行った時にもインドネシアへ来た時にも立派なガジュマルがそのへんにたくさんあって、それを見つけては「沖縄以南だな〜」と思っていた。竹にまつわる昔話が残っている地域も、インドネシアやフィリピン、台湾をつたって日本まで伸びているというのをかなり前に先生から聞いた。
植物は「面」という感じが強い。べたーーっと広く、地面にはりついて生きるのは、人間の自分とは全然ちがう。やつらは場所との相性が直に自らの生死を左右する仕組みで生きているので、人間よりもずっと切実に場所と共にある。地面を離れたら自力では生きていけない。木の在り方は、ほぼ場所だ。
 
そして、ここへ来て景色をみている実感として、インドネシアの道端にある草木と、日本で見かける草木とは、意外とかぶっていない。竹はあるし、イネ科っぽい雑草もあるし、山の上へ行くと松もたくさんあって、似ているものもそれなりにあるけど、少なくとも私の今滞在しているAmbarawa周辺の木々は、ほとんどが日本では見かけないものたちだ。そういうわけで珍しがってよく見ているせいか、最近は街で見かける木々の顔ぶれが徐々に把握できてきた。
 
いつも通る道の曲がり角にあるあの木と、校庭にある大きなあの木と、ゲストハウスの中庭にひょろっと高く伸びているあの木とが、みっつともよく似ているな…とある時ふと思って、次に見る時に意識して確認していったら、全部同じものだと先日わかった。名前はわからないけど、傘のようにひょろひょろと垂直に幹を伸ばし、てっぺんでワッと枝葉を広げる形が特徴的だ。
あと、この辺りには、所々にコーヒー畑がある。少し山を登ったところの村に、カフェを併設しているコーヒー畑があって、遠いけど気に入ったので、二回行った。カフェは静かで涼しくて、素人のわたしでもわかるくらいコーヒーが美味い。そこでコーヒーの木(収穫のために背を低く抑えて剪定してある)の姿を見て覚えていたら、後日、時々通る大きい道路のわきにたくさん生えているのが全部コーヒーの木だ!!とわかった。その近くにもやっぱりコーヒーを売りにした観光スポットがある。その知識も備えて引き続き車窓からよく見渡してみたら、そのへん一帯がみごとに全部コーヒー畑だった。なぜかコーヒーに混じって他の背の高い木も植えてあるので、ぱっと見た印象が畑っぽくなくてそれまで気付けなかったのだけど、同じ木がたくさんあるな…と思っていたのが、コーヒー畑だとわかってちょっと誇らしいような気持ちになった。地図に色を塗りたい気分だった。
 
また、果物が生る木はパッと見てすぐわかる。一番よく見かけるのはマンゴーとココナッツとバナナ。ジャックフルーツもよく見る。かなり巨大なトゲだらけの果実は迫力があっていい。ドリアンもそこそこ見かける。ちょっと珍しくて、見かけると「オッ」となるのはカカオだ。木の枝に直接、カカオの実がプリッと生っていておもしろい。
 
日本語の先生が「あそこにドリアンの木があるでしょ」と校舎の2階から遠くを指差して教えてくれたことがあった。庭先の木から小さくてすっぱい赤い実をとってくれたこともあった(しぶくてすっぱくて美味しくなかった)。生物の先生も「僕のうちにはランブータンの木があるよ」とか「あの先生のうちにはドリアンの木があるのでそれをこの時期はみんなで買うんだ」と言っていた。一緒にいただいたそのドリアンは、旬ということもあってか、明確に美味しかった。今までドリアンを食べた時は、慣れない味すぎて好きとも嫌いとも言えないなあと思っていたけど、美味しいドリアンは美味しいんだとわかって、それはけっこう嬉しかった。
ここでは人と木の距離がとても近い。果物の生る木が多いから、木を見分けることがごく普通のことなのだろう。
日本で暮らしていて、わたしはあのバイトをしていなかったら、今ほど木に興味を持っていなかっただろうし、木の見分けなんてついていなかったと思う。日本の街中にあって気軽に実を食べられる木といったら秋のイチョウくらいで、街路樹の名前がわかるとか、そういうことは自分の生活や命とあまり関係がない。でも、ここでは関係がある。一年中、あらゆる木に生る実を食べられるからだ。食べることが、木と人の距離を縮めている。みんな、どんな風に果実が生っているのか分かって食べている。前回、動物と人が近いような感じがするというようなことを書いたけど、こちらの飲食店の看板は料理の写真よりも動物の絵が描いてあることが多くて、みんな自分が食べている肉がもともとどんな生き物だったのかちゃんと分かって食っている感じがする。だいたいの鶏肉は骨つきだし。
 
 
 
 
 
木を見ることとは違う話になるが、先日、少し遠くの釣り堀のようなところへ、友人の家族に連れて行ってもらった。日本でいう川床のような、高床になっているところでナマズを食べ、小さな池でアヒルボートを漕いで遊んだ。食べている途中で強い雨が降り出すし、朝からずっと曇っていてかなり寒くて、わたしは体調もあんまりよくなかったので大変だったのだけど、その帰路がすごくよかった。
 
さっきまでの雨が小雨になって降り続いていて、依然として肌寒い。でも、胃は痛いし悪路も続いていて酔いそうだったので、わたしはメガネに水滴がつくのはすっかり諦めて、顔を雨と風にさらして窓の外の景色を見ていた。
わたしたちを乗せた大きな車は田舎道をガシガシ走って、森のようなところにある古い家々のあいだを抜けて、鶏が歩いているのを轢きそうになったりしながらどんどん進んだ。ひとしきり走った頃、木々や家々の間を抜けると、そこは広々とした田んぼだった。すでに収穫の済んだところとまだのところとが混ざっている。少し遠くのあぜ道にはとても背の高いヤシの木が並んで立っていて、さらに向こうのほうには、山がみっつほど重なり合って彩度の低い青のグラデーションをつくっていた。そこに白っぽい霧のような雲が低く漂って、早朝みたいな静けさだった。山は、どっしりと重たそうに霞んで、巨大だった。
 
急に景色が開けてそれらが目に入った瞬間、すごく気持ちが良くて、ワア〜〜!と声がでた。続けてわたしは「indah...!」と低めの声で呟いた。自分の口からふわっと出て来たそのインドネシア語が、なんだかじんわりとした質感をもっていて、心がちょっと立ち止まった。
 
 
少し前に「indah」は景色に使う「美しい」で、人には使わないんだよ、と友達が教えてくれた。(人が美人だとかいう時には「cantik」という。)その後、すでに何度か景色が見事だった時に「インダァ!」と言ってきたけど、あの車窓からの眺めを前にした時、あれが、わたしにとって、初めてちゃんと本当の「indah」が言えた瞬間だった。
 
正しい発音ができたかどうかとかは全然わからないし運転をしていた友人の父も助手席にいた友人の母も、「そうだねえ山だねえ」みたいな反応だったけど、わたしは一人でけっこうグッときていた。
インドネシア語の「h」の発音は日本語にはないのでちょっと難しくて、意識して丁寧に発音しようと心がけてきたのだけど、この時ほどこの「h」の存在感がしっかりと胸に染みたことはなかった。なんというか、その景色を前にした感動が、語尾の「h」の、ため息みたいな低い声にまでのった気がした。口から出た音と、目で見た景色とが、ついにちゃんと結べたような感触があった。「インドネシア語で景色が見えた」と言ったら言い過ぎかもしれないけど、それくらいの感動だった。
 
 
その、ほんの一分くらいの出来事に、わたしはすっかり心をもっていかれて、道が変わって景色が見えなくなるまでの数十秒、顔にあたる小雨と風の強さに目を細めていた。体だけじんわり暑くて、顔は雨と風で冷たいのがちょっと可笑しかった。
 
 
 
 
 
 

各々、たくましく

 
先日、ゲストハウスのオーナーとなんとなく立ち話をしていたら、1時間たっていた。
 
1時間も笑いながらあれこれ他愛のない日常の話ができたという大きな進歩があまりに嬉しくて、その後はオーナーと話すハードルがいっきに下がり、毎日なんとなくいい感じで話せるようになった。最初のころ、話しかけられるのが怖くて、怖いあまりつっけんどんな声で返事をしたりしてしまっていた自分が恥ずかしい。
 
このゲストハウスの庭には、果樹が数本あって、そのうちのひとつにsirsakというのがある。トゲトゲしていて緑色で、ゲンコツ三つぶんくらいの大きな実ができる。ズッシリと重たく、皮を剥くと果肉は白くてヌルッとしていて、甘味と酸味が効いている。冷やして食べると美味しい。カタカナではサワーソップと呼ばれる熱帯のフルーツで、調べてわかったのだけどかなり栄養豊富らしい。
 
最近わたしに仕事関係の来客があった時に、二人でお食べ、とオーナーが大きなsirsakをひとつくれたのだが、その皮にビッシリと白いカイガラムシがついていた。日本で見るのと同じだった。バイトで散々駆除してきた虫に、インドネシアでも再会してしまった。ただでさえトゲトゲしていて見た目はちょっと怖い果物なのに、それに加えて、これでもかという数のカイガラムシ。ちょっと前までの自分だったら、うええええキモい〜〜という気持ちが勝って尻込みをしてしまったであろうグロテスクな様相だった。でもその時は、すんなり受け取って部屋へ持って上がり自分のナイフで切って皮を剥きひとくち大に切りながらグラスにいれてスプーンで食べるまでに迷いやビビりがなくて、ちょっと誇らしかった。以前、切ってもらってビクビクしながら食べた時よりも美味しく感じた。(この食べ方は前回、オーナーの奥さんが教えてくれた。)
 
 
 
 
先週末に動物園へ行った時、あまり元気ではない動物も表にいたのが印象に残った。怪我でもしたのか、片足が変形していて歩きにくそうなヒクイドリもかなり長い時間をかけて見てしまったけど(太い3本指の足や青いデコボコした顔、そして硬いコブと嘴が恐竜のようでとてもカッコ良くてわくわくした)、一番ショッキングだったのは、絶不調のビントロング(クマジャコウネコ)だった。
遠くから檻がみえた時には、おっ、寝ている黒いのがいるぞ!たぬきかな?と、かわいい姿を期待して近づいたのだけど、近寄ってみたら、彼は寝ているわけではなかった。鉄格子の囲いのすぐそば、地面から170センチくらいの高さにちょっとした木の床が設えてあり、たぬきよりもふた回りくらい大きな黒い毛の動物が一匹、その上で腹ばいになっていた。首から先をその床からダラリと宙ぶらりんにして、顔は力なく真下を向いていた。首の付け根が痛くなりそうな姿勢だ。どんな寝顔をしてんだろうと覗き込んだ瞬間、びっくりして思わず鳥肌がたった。
真っ赤に充血した両方の目玉が、重力による圧のせいだろうか、大きく見開かれたまぶたの外に飛び出しかけていた。一点を見つめているようでもなく、見えてすらいなそうな、生気のない顔だ。かなり長い時間この姿勢のままなのだと思われた。開きっぱなしの口から時々よだれが垂れる。歯茎も腫れていて、時々舌が動いて鼻先を舐めるのだけど、それ以外には呼吸しかしない。長いヒゲもひょろひょろしていて覇気がない。苦しそうだった。
 
ビントロング、なんて全然わたしには馴染みのない生き物だけど、それでも、目の前のその生き物が明らかに何かの痛みに耐えているのはすぐにわかった。一緒に見て回っていたマダムも、「寝てるのさぞかし可愛いじゃろ〜^^」とニコニコしながらわたしに追いついたのだけど、その動物の異常な様子を見てすぐに「うわあ…病気だね…」と心配そうな顔に変わった。二人でしばらく檻の前に立ち尽くしていた時、わたしは「生き物って、言葉も種も何も関係なく、調子が良いか悪いかはわかるんだなあ」ということに妙に感心していた。
 
動物園で調子の悪い動物も晒しておくというのは、きっと本来的には、その動物にとっても、見にくる我々の衛生的にも良くない。でも、動物園というのはもう「動物園である」という時点でけっこうな残酷さがある、というのをかなり強烈なビジュアルで目の当たりにしたら妙に納得してしまって、その感じはもはや不快ではなかった。もうあれから一週間ちかくたったけど、あのビントロングは今頃どうなっただろうと今だに思い出して、痛いような想像がついてきてしまってソワソワする。
 
 
インドネシアに来てから、調子の悪い動物とか、死んだ動物を見る機会が多い。人間も、死んだ人はさすがに見ていないけど、調子が悪そうな人は何人か見た。病気をもっていそうな痩せた猫も時々いるし、道でさっき轢かれたばかりの大きめのネズミも見たが、目を背けたくなる鮮度だった。アスファルトの上でセンベイ状になっているカエルや小さいネズミなどは、毎日のように見る。
だが同時に、生きている動物を見る機会もとても多い。そのへんの道では脚の長い鶏がひよこと一緒に歩いているし、屋台でカラーひよこや殻に絵を描いたヤドカリも売っている。すぐ近所の市場では毎週、大きな牛がたくさんトラックで連れられて来て売られている。鳥や猫を飼っている人も多い。市場では馬車も走っている。
 
そういう場所だから、人間がトラックに溢れそうなほどたくさん乗って仕事へ向かうのとか、そのへんで居眠りしているのとか、バイクが器用に車のあいだをすり抜けていく姿なんかが、他の動物の営みと、あんまり遠くないような感じがする。入院している人を見舞いに行った時、その人のベッドの周りにマットを敷いて、家族たちが床でだらだらお菓子を食べたり寝ころがって喋ったりしていて賑やかで、なんだか元気な人と元気じゃない人の差が歴然と見えていて不思議だった。どちらもそれぞれの調子で生きていた。
 
わたしが客として人の家にお邪魔した時も、その家族のお母さんは、ひととおりご馳走の用意が終わると床に敷いたマットに寝転がってテレビをみていて、そのマイペースさを前にしたら、こちらも気を遣い過ぎずにくつろげた。嬉しかったし、ありがたかった。
いろんな友人が、一緒に出かけたりした時に「ちょっとお祈りをしてくる」と言って5分か10分くらい姿を消すのにも最初は戸惑ったけど、各々が一人一人で考えたり信じたり祈ったりして生きているのを日常の中で感じられるのは良いなと思う。
 
各々が各々できちんとやっている、というのが大事だ。バス停のないアンコットだって、使っている人たちがルールをわかって守っているから成立している。飲食店も、伝票を使わない店は自己申告制で「これとこれをいくつ食べました」といってお金を払う。
なんとなく、その場に連帯感がある感じなのがいい。みんな知らない人とよく話す。
 
さっきも、暗くなってから家までの少しの道を歩いていた時、前方におばあさんがいて、あ、おばあさんだなあ、帰る方向が同じなのかなあ、と思いながら自分の影が彼女の足元まで伸びているのを見つつ、ちょっと足音を気にしながら歩いていたら(なぜか怖がられてしまうような気がしていた)、ふとこっちを振り返って挨拶をしてくれた。
ちょっとびっくりしたけど挨拶を返したら、なんとなく会話が始まって、あんまり聞き取れなかったのだけど「コレア」と聞こえたので、察して、日本から来ました、と伝えたあたりで、行く道が別れた。なんでもなく、またねえ、みたいに別れた。
 
こういうなんでもない会話をする機会が本当に多い。言葉が下手くそなわたしでもそうなのだからすごい。
ここでは、違う宗教をもった違う民族同士が一緒に暮らしている。それをみんなが自覚している。異邦人である今のわたしでもそれなりに居心地がいいのは、そういう理由もあると思う。
つい、一人でやる、一人で行く、という方向性で日々の活動をしがちな人間としては、動物までも含めて、各々が各々で、でも連帯感をもって協力しあってやっている、この雰囲気は好きだ。人間関係のいざこざとか、もっと入っていけば面倒なこととかも出て来るんだろうけど。
 
思い切ってインドネシアに移住してしまう、という未来は、全然想像できないから多分ないけど、日本で楽しく暮らすためにここで考えられることは、まだまだたくさんある。引き続き、とりあえずは春までお世話になります。
 
 
 
 
 
 

近況報告

 
11月9日 金曜日 
 
あっというまに11月になった。日毎に日本との気温差が開いていくのを、実感はないけど想像している。カレンダーは11月なのに暑いので、日本で二十数年かけて11月に任せてきたイメージと噛み合わない。日付がただの数字然としてくる。
 
最近ようやく雨季らしくなってきて、毎日雨が降る。夕方や夜に一気にくるのが基本だけど、一昨日の昼間には、バケツどころかプールをひっくり返したような、ものすごい雨が降った。とにかく勢いと音がすごいので、つい楽しくなってしまう。でも昼の雨はすぐにあがる。降る前よりも涼しくなるので、日本の梅雨とは全然違って爽やかだ。
日本から持ってきたものを使い切ったのでこちらで新しく買ったボールペン(種類の違うのを3本買ったうちの一本)も、もうほとんどインクがなくなった。日記や会話の時のメモ、勉強など、紙に文字を書く量が以前よりもかなり増えていて、この感じは心地がいい。シャーペンや鉛筆よりもサラサラと軽い力で細かく濃く書けるのが好きで、そういうボールペンを選んで使っているけど、この半年で何本使うことになるだろう。
 
数えてみたら、もう48日目になるようだし、ぼちぼちインドネシア語の上達を感じていたいところなのだけど、むしろまだまだだという気持ちがどんどん強くなる。
耳が慣れて相手の言葉を聞き取れるようになってきたのはとても実感している。さっき、偶然ごはん屋さんで会ったジャワ語の先生と、かなりギリギリな言葉と身振り手振りと辞書を組み合わせてではあるけど、なんとか途切れずに、したい会話ができて、かなり成長を感じた。でも、聞き取れているだけに、スピーキングが追いつかない悔しさが大きくなってきた。
そういうわけで、もっと真面目に勉強をやろう思う。心や体力の余裕も出てきたし、その日に新しく知った単語を小さいノートに書いて、細かい時間で暗記をしていくのを昨日から(昨日から!)始めた。実際の出来事の記憶と一緒に覚える作戦。あと今日から、インドネシア語の日記もじりじり書く。Google翻訳を使わないで友達のメッセージに返信するのはできるようになりつつある。綴りを間違えるけど。頑張ります。
 
 
自分の滞在している部屋はゲストハウスの一室なので、他の客やオーナーに会うのが怖くて最初は自室に引きこもり気味だったけど、だんだんオーナー夫婦と笑顔で会話ができるようになってきた。もう最近は10分だけの近所の散歩にも出るし、気軽にお湯を沸かしたり冷蔵庫にヤクルトを取りに行ったりもする。日頃インドネシア人とだけ接しているので、自分にとっての日本語が、人を相手に喋って使う言語ではなく、文字で書いたり読んだりするための言語になりつつあって、ちょっと暗号とか秘密みたいだ。引きこもる言語というか、内側の言葉という感触。
 
暮らしに関しては、歯を磨くのを外の手洗い場ですればいいんだ!!と、ある時ふと気づいて、それからは歯磨きが楽しい。風を感じながら歯磨きと簡単な筋トレをするという良い日課ができた。なぜ外で歯を磨くことになったのかというと、自室に洗面台がなく、シャワールームは「トイレの壁にシャワーもついています!」というつくりでバスタブがない(シャワーと同時にトイレもびしゃびしゃに洗われるのでいっそ清潔な感じがする)ため、排水は床の角の排水口一箇所で、歯磨き後のうがいを床に吐くのとトイレに吐くのと、どっちがいいのかわからず、どっちも試してどっちもなんか嫌だったからだ。外で爽やかに歯磨きをするようになって、グッとQOLが上がった。
 
オーナーのおじさんとは毎日顔をあわせる。先日、ついに「ギターいつも弾いてるの聴いてるよ〜」と言われた。やばい、夜も時々弾いてしまっているし、根本的に歌の声が大きい。他のお客様のご迷惑となります、かな、ごめんなさいすみません、、と一瞬でワッと考えて胃がギュッとなった。でも、恐る恐る「ぼ、boleh………?(〜してもいいですか?)」と聞き返したら、「Boleh!Boleh!(いいよ!全然いいよ!)」といい笑顔で言われた。近所の音楽教室とか、アザーンとか、雨とか、かなりうるさいし、ギターと歌くらい、いいだろう!と正直けっこう遠慮なくやっていたけど、よかった。でも、まあ事実としては完全にご指摘だし、夜の音量には気をつけようと思った。インドネシアの人ってこんな音環境で、どのくらい近所迷惑とか思うんだろうか、というのは以前から気になっていることなので、この件に関する第一歩が始まったなと思った。
 
 
かねてから気になっていた、トランスの受け入れられようについては、想像以上に収穫があった。まずは絶対に見たかったジャワのトランスダンスが観れた。
自宅から歩いて5分程度の場所に、家々に囲まれて小さな広場があり、そこでジャティラン(竹製の馬の盾のようなものや鞭をつかって踊る)やレオグ(大きくてグロテスクな被り物をして足に大量の鈴をつけて踊る)といったジャワの踊りをやっていた。日曜日の午後だった。地元の人ばかりが集まっているようで、観客は70人程度で、パッと見た感じ外国人は自分以外に一人もいなそうだった。子供たちも踊りやガムランを披露していた。食べ物の屋台がいくつか出ていて、それの客寄せのための安っぽい電子音楽が踊りの音楽と混ざってしまってうざかったけど、でも、そうだ、こういうとこだ〜と思った。この、無神経な感じは、ここで半年眺めたいと思っていたもののひとつだ。(そうは言ってもあらゆる場で耳にするPAのバランスがことごとく酷くて、それは堪え難いものがある。必ず低音をきかせ過ぎてモワモワしているし絶対的音量もかなり大きいので、テンションの高い司会者が大きく息を吸ったのを見るとわたしはこっそり耳をふさぐようになった)
 
広場には、木のチップを敷いて竹の柵で囲まれた20m四方くらいのアクティングエリアが作られており、その向こうにしっかりとしたステージが組まれ、ガムランの音楽隊が座っていた。トランスにはいるダンスはプログラムの最後で、10代くらいのとても若い男の子たちが七人くらいで激しく踊ってトランスにはいり、術師たちの力をかりて気絶して舞台裏へ運ばれて行く、というのを、ひたすら続け、全員が終わるまで観客みんなで見守った。最後の一人が運ばれて行くとすぐにお開きになった。
トランスにはいっている時は口にものをいれたくなってしまうと2年前にインドネシア人から聞いたことがあったけど本当らしかった。カゴにいっぱいの花(術師がダンサーに向かって蒔いたりする)をムシャムシャ食べだす者、何かの根っこ?芋?のようなものを生のままボリボリかじる者などもいた。トランスにはいっているわけではないんだけど、直径30センチくらいある木ノ実を両手で持って、口で豪快に固そうな皮をバリバリ剥いて中のジュースを飲んでいる男の子がいて(みんなそうしていた)それもけっこう迫力があった。3つくらいそのようにして剥いて食べていた。歯が強い。
途中から来た友人やゲストハウスのオーナーにも「怖かった?」と聞かれたけど、トランスそのものよりもむしろ、術師が男の子たちの額に触れたり首や頭をちょっとグッとやるとスッと気絶するのが一番怖かった。彼らの家族たちはどんな気持ちで見ているんだろう。術師は男の子たちにタバコを咥えさせたり小粒の何か(薬だったのか、謎のまま)をポケットから取り出して一人ずつに手渡して食べるよう促していたりもしていて、厳密に音楽と踊りとお面だけでトランスにはいっていたわけではなさそうだ。帰国までにできればあと二回くらい遭遇したい。
 
あと、派遣先の高校で、悪い霊に取り憑かれてしまった女子生徒の除霊をするという事があった。今週の月曜日だった。授業と授業の合間、図書室の一角で日本語の先生とお喋りしていたら、女子生徒たちが大勢で一人を抱えてやってきて、近くのソファにその子を寝かせた。悪魔が入ったんだという。見ると、夢にうなされている時のように、目はつぶったまま汗をたくさんかいて、ずっと、うーーーーと低い声で唸っている。涙も流している。ここはイスラム教の学校なので女子生徒は全員ジルバブ(ヒジャブ)をしているのだけど、運ばれて来た生徒はそれを外していたので、ジルバブの日焼けのあとがあらわになっていた。目尻から耳にかけての、いつもは人にも太陽にも晒されていない肌はとても綺麗で、ついちょっと見惚れてしまった。ムスリムの女性たちは、きっとメガネ焼けや水着焼けならぬジルバブ焼けをしちゃうんだろうな、ちょっとヘンなの、と勝手に想像してそんな風に思っていたけど、実際にみたらその日焼けのコントラストは美しく思えて、そう思ったことが意外で、こんな時に不謹慎かもしれないけど、密かに嬉しかった。
一緒にいた日本語の先生が、女子生徒の足の指や手の指を爪で強く掴んだり、顔を叩いて名前を呼んだりしたけれど、ほとんど反応がなく、やがてお祈りが始まった。先生がその女子生徒の額に右手を当てて、とても小さい声でブツブツと唱えるのを、周りの生徒たちもみんな真剣に見守っている、かと思うと、そうでもない。普通に冗談を言って笑いあったりどつきあったりしている。どのくらいの深刻さでここに立っていたらいいのか、よくわからない。それでもちゃんと心配はしているようで、30~40分くらい、お祈りをしたり顔を叩いたり鼻をつまんだり、みんなで口々に名前を呼んだり、紙と鉛筆を持たせて名前を書かせようとしたり(今彼女の体に入っているのは彼女ではなくdedemit(妖怪、悪霊)なので、なんとかして本人を呼び戻す必要がある)、お茶を飲ませようとしたり、生徒たちも色々試みていた。その女子生徒は20分くらいしたところでなんとか起き上がって座れるようにはなったけど、先生の力では除霊しきれなかったらしく、授業も始まってしまうので、学校の近所に住んでいるもっと除霊が得意な人に続きを任せることになり、またその女子生徒は運ばれていった。
先生によると「学校にはわたしの他にもう一人、除霊ができる先生がいます」「運ばれていった女子生徒のクラスの教室のすぐ外はお墓になっているからそれかな〜」「去年と一昨年はほとんどなかったんだけど、なぜか今年はもう3人目です」とのことだった。突然取り憑かれてしまう生徒がいる、とは聞いたことがあったけれど、いざ目の当たりにするとさすがにビビるし、普通に高校の教師なのに「簡単な除霊ならできる」なんて、かっこいいけど、どういう感覚なんだろう。同じようなことは日本でもありますか?と聞かれ、あんまりないですと答えた。答えつつ、まあ、日本にもあるんだよなと思った。
 
 
 
 
心に負荷の大きい事件もあった。
最小の文字数で要約すると、ここへ来てすぐ仲良くなったインドネシア人の友人(男性)に恋愛的な好意を寄せられあまりにグイグイ来られ心が限界になり「そういうのは無理です」と伝える、ということがあった。彼の名誉のために言っておきたいのだけど、その友人に落ち度はないし暴力的なことも一切ない。ただ、わたしが勝手に、めちゃくちゃ傷ついて疲れてしまって、丸一日、全ての気力を失って寝込んだ。
彼はその後もケロっと「じゃあ友人てことで今後ともヨロシク!」と今までと変わらない調子のメッセージを寄越すし、会っても普通だったので、わたしが一人で勝手に落ち込んでいるみたいに思ってかなり情けなかった。
 
かなりのダメージを受けてしまっている理由がよくわからなくて散々悩んだけど、理路整然と分析しようとすればするほど嘘になっていくので、そういうふうに理由を考えるのはやめた。わたしからはこう見えていて、あなたからどう見えているのかわからない、という、ただただそれだけのシンプルな断絶って、そういえばこんなに苦しいんだった。そう気づくのに三日くらいかかってしまった。渦中にいると分かっているはずのことが分からない。
(そして今日たまたま「内部(dalam)」という単語を調べたら、深さという意味もあるらしく、ドンピシャっぽいことわざが載っていた。「Dalam laut dapat diduga,dalam hati siapa tahu.(海の深さは測れるけれど人の心は測りがたい)」)
 
 
人からの好意には、圧と呼びたくなるような強いエネルギーがある。自分からにせよ人からにせよ、強い好意が苦しかったことは今までにも何度かあった。(あれってなぜか、言葉で言わなくても、目や肌でビリビリとわかるから不思議だ。)逆に、それが自分の原動力になったことも、たくさんあった。恋愛なんて人間の一番愚かな部分がやらせる困ったものだけど、でも、愚かなぶん、他に拠るところもないので、めちゃくちゃ強い。相手をも巻き込んで愚かにするようなところがある(このように)。
だいたい始まったばかりの時には片思いだし、性的なこととか暴力とかが絡んできがちだし良いことばかりではないけど、とにかく大好きだ、というシンプルなエネルギーが動き出したら向かうところ敵なしで、食べなくても眠らなくても枯渇しない。好きなものは好き、は、すごく強い。そこから始まるものはたくさんある。
 
最近、見知らぬ誰かに配慮をしようとし過ぎたり論理が破綻するのにビビったりして自分の動きが鈍く小さくなっていたので、先週はこの件で理屈抜きのしんどさに身を浸せてよかった。理屈抜きのしんどさにぶち当たって心を削られるのと、理屈抜きで大好きなことに対して根拠なしに勇気が膨らむのとは、たぶん裏表になっている。だから、ああやって寝込んで落ち込んでいたのは今の勇気を出すのに必要な時間だった、と思うことにした。(そうでも思わないと情けなくてやってられない)
 
ちょっとこじつけるみたいだけど、最近はそういう熱をもって、ギターを弾くのがめちゃめちゃ素朴に楽しい。毎日のように弾いていると、抑えにくいコードのうまく鳴らせなかった弦が鳴らせるようになったり、ぎこちなかった手の動きがこなれてきたりするのがわかる。指先も手首も腕もずっと座っているのでお尻も痛くなるけど、上達の楽しさが勝つ。下手なので上達する以外にないというのが実際のところだけど、真面目にやるとちゃんと上手くなる段階は、ただただ楽しい。
昨日、かなり集中できた時間があって、ずっとギターで弾き語りがしたかった曲に頑張ったら手が届く気がして、気がしただけだしかなりダサくてクサいけど、夢が目標に変わったぞという思いでニヤニヤしてしまった。寝る前に頭のなかでめちゃくちゃな歌が鳴りまくるのも久しぶりで嬉しかった。調子に乗っています。
 
昨日と一昨日、夕飯を食べずに空腹で寝たら、朝の寝覚めが最高によかった。多少の睡眠時間の足りなさは気にならなかったし、体が軽いし、肌の調子もたった二日でググッとよくなった。インドネシアに来てから、こんなに体が軽い日が二日も続くのは初めてだ。運動不足とか、油分過多、塩分過多、水分不足、ビタミン不足、など、いろいろ疑って対策を講じていたけど、とても簡単なことだった。
健康を確保する方法が掴めたら、なんとかなる気がする。
 
この、夜ご飯を食べない作戦、実はけっこうこの季節の理にかなっている。夜になると雨が振るから外へ食べに出るよりも空腹のまま寝てしまって、朝早く起きて食べたり遊びに行ったりして、雨を避けて午後には家に帰る。天気のサイクルとばっちり噛み合う。天気を味方に生活を整えられるのは気持ちがいい。
 
 
 

この部屋を味方に

 
10月21日日曜日
 
スマランを離れ、アンバラワという町が生活拠点になって2週間が経った。
 
ちょうど1週間前の木曜日は、今回インドネシアへ来て初めての激しい腹痛、下痢、嘔吐と高熱で、真夜中にとてもしんどい時間を過ごした。(次の日の朝に病院へ行って、薬をたくさんもらって飲んで寝たらすぐ良くなったので土曜日には病み上がりのフラフラではあったけれど無理矢理マゲランへ出かけて、ギリギリ無事に観たかった野外フェスを観れた。)
腹痛の原因は、たぶん単純な消化器官の疲れだった。引き金になったのはおそらくワルンのちょっと古かった揚げ物。アンバラワに着いて1週間目は、先生が歓迎の意を込めて、次々と地元の食べ物を食べさせてくれて、興味もあったし遠慮もできずで連日食べすぎていたのだ。インドネシア料理は、辛いもの、脂っこいもの、味の濃いものばかりなので、ひとつひとつは美味しいけどたくさん食べると胃が疲れてしまう。
 
倒れたことで身をもって学習したので、週明けからは遠慮したり食べ残したりするようになった。食べ物による歓迎ムードも落ち着いてきて、体調は今度こそだいぶ落ち着いた。先生たちと一緒に楽器を弾いたり歌ったりバレーボールをしたり、できないなりにお喋りをしたり、食べる以外の楽しみが増えてきた。仕事もなんとか問題なくやれている。
 
アンコットという路上バスにも少しずつ乗れるようになってきた。angkotは、大通りを走る小型バスだが、バス停がない。時刻表も路線図もなく、道で乗りたいことをアピールして捕まえる。あるいは止まっているのを見つけて乗る。乗る時に行き先を確認しないとどこへ行くのかよくわからないし、乗ったら降りる時に「ここで降ります」と伝えて車を止めてもらう必要がある。
ついついタクシーの配車アプリが便利なのでそれを使ってしまうけど、angkotを使ったほうがだいぶ安い。学校と家の間の運賃が、だいたい5分の1くらいになる。反面、システムが完全に地元の人向けなので、言葉が通じないと使えない。わたしは、まだまだ流暢に喋れるわけではないけど、一度生徒に教えてもらいながら一緒に乗って、一人でも数回乗って、家の近くの目印になるものとか、そこまでの道がどう続いているか、単語レベルででもどう伝えれば通じるのか等が分かってきたので、わかる道を走るものなら一応ひとりでもなんとか乗れるようになった。
 
雨はまだ全然降らない。先生曰く、夜中に降っているらしいのだけど全然気づけない。昼間はカラッとしていて町中の土が乾いて埃っぽいくらいだ。夕方は毎日少し強めに風があって涼しい。ちょうどこちらへ旅立つ前の、日本の9月のような、しかしそれよりもカラッとした気候がずっと続いていて、快適だ。もう10月の半ばというのが信じられない。今日なんて、プールに行って泳いだし、田んぼは青々としていたし、雲はモクモクとして陽射しは強かった。
 
 
 
 
2週間前、体調を崩した木曜日の、まだ元気だった夕方に、少し小ぶりのギターを買った。他の必要な買い物のついでに、先生にお願いをして楽器屋に連れていってもらった。日本で時々弾いているアコギは叔父さんにもらったフォークギターだけど、この日、店頭で弾いてみたらガットギターのほうがちょっと軽かったし音も好きな気がしたので、あまり迷わずにそっちを買った。ヤマハの楽器で、中にMade in Indonesiaと書いてあった。
 
家に帰ってきて、すぐベッドに座って、チューニングをした。
覚えているコードを弾いて、覚えている歌を歌ってみようと声を出して、その瞬間、ビックリした。
 
底から水面へ染みわたるような、しっとりとした響きがあった。
声がスイーっと泳ぐような心地がした。
喋る声は何度か出していたはずだけど、歌声はこの時に始めて出した。
いま始めて歌ったんだという事実もそこそこインパクトがあった。 
 
この部屋は、決して広くはないけれど天井は高く、素材が硬い。床は東南アジアのあのツルツルとした硬いタイルだ。暮らし始めてすぐで、物も少ない。そういう部屋だからだろう、日本で自分の過ごしているごちゃついた狭い部屋よりも、声がずっとよく響いた。そしてその質感がすごく良かった。大袈裟みたいだけど、ちょっと目の奥がジンとするくらい嬉しかった。
 
 
前回ここに書いたように、インドネシアへ来てから、どうも歌を歌うのが難しくて、歌えていなかったのだ。
 
自分の歌を歌おうとすると、アカペラで、歌詞があるので、どうしても歌が言葉に寄りすぎてしまって、しっくりこず、歌えないでいた。昼間は必死でインドネシア語の海の中でもがいているので、この場に対して日本語を与える、というのも、まだ腑に落ちない。
でも、体は、とにかく歌が歌いたい・声が出したいと思っていて、不満の重さですっきりしない。今は、まだ言葉が上手くいかなくてつらいから、言葉から一旦離れたところで、歌が歌いたかった。それで、とにかくギターを買ってきて、言葉というより音楽、という姿勢になって、他人の歌を歌った。そうしたら、なんてことなく楽しく歌えた。
 
そういえば日本にいた時だって、どうしていいか分からないけどとにかく声が出したい、という時はカラオケに行って半ば筋トレのように延々歌いまくったりしていた。自分が歌を作る、自分の歌を歌う、という以前に、たくさんの先人の歌に体と心を助けられてきたのを重く実感したし、かなり単純に、言葉を離れても歌があることが嬉しかった。口や体が喜ぶのがわかった。歌うのは単純に楽しい。
 
 
町に出て自分の言葉で歌う、ということについてはまだ困惑しているけど、少なくともこの部屋で歌うことはできるようになった。部屋にこもって歌う、この部屋と一緒に暮らす、ということに関しては、やっていける気持ちが湧いた。好きな響きの部屋、という点で愛せる。まだ出会って間もないこの部屋の、新たな、しかし大事な側面を知れた気がした。
 
歌うと、部屋の質感が耳や肌に届く。部屋のどこでどこへ向いて声を出すかでも響きが変わるので、自分の体と部屋との関係もわかる。家具の配置を自分の使いやすいように変えたり、生活雑貨の収納場所と方法を決めたり、棚がないのでカゴを吊るしたり、といった具体的な生活環境の構築だけではなくて、やっぱり自分には歌が必要だ。自分がどこにいるのか、自分がどんなところにいるのかを、一つの感覚器官だけではなくて、他のいくつかの器官も通して知れた時、いまここに「いる」な、と思える。その場所で声を出して、この耳と肌で聴いてわかるようなことが、わたしはやっぱり好きだし信じられると思った。
 
 
 
このあと体調をめちゃめちゃに崩したのだけど、病院から帰ってきてベッドに寝ているあいだ、家の外の音がたくさん聞こえた。耳はずっと仕事をしている。言葉はまだだいぶ怪しいけど、耳は今までと同じようにちゃんと機能している。ほとんど全身が動かないくらいしんどくても健康なパーツがあるのはシンプルに希望だった。
 
 
元気を取り戻して次の週には、学校(勤務先)の職員室で、楽器の得意な先生と一緒に日本の歌を歌ったりインドネシアの歌を歌ってもらったり、ギターを教えてもらって弾いたり、ヴィオラジャンベも加わってセッションになったりした。教室で、ちょっと歌ってよと言われて歌ったりもした。歌に歌詞はあったけれど、意味はほぼ通じていないので、実感として、あれらは全部、音や音楽だった。
 
歌唱を許された時にはその都度きっちり今できる全てを注いで歌っているので、たまに自分でもこれは!という瞬間がある。歌不足になるなんて心配は不要だった。部屋でもがんがん歌っている。買ってから毎日ギターを弾いているので久しぶりに左手の指先が硬くなってきた。ようやく生活に慣れて、歌が歌えるようになって、目下のところインドネシア語がわかりやすく課題だけれど、どうなっていくだろう。わかりやすいことのほうが多いんだから頑張れるだろう、頑張らないと。頑張ります。