この部屋を味方に

 
10月21日日曜日
 
スマランを離れ、アンバラワという町が生活拠点になって2週間が経った。
 
ちょうど1週間前の木曜日は、今回インドネシアへ来て初めての激しい腹痛、下痢、嘔吐と高熱で、真夜中にとてもしんどい時間を過ごした。(次の日の朝に病院へ行って、薬をたくさんもらって飲んで寝たらすぐ良くなったので土曜日には病み上がりのフラフラではあったけれど無理矢理マゲランへ出かけて、ギリギリ無事に観たかった野外フェスを観れた。)
腹痛の原因は、たぶん単純な消化器官の疲れだった。引き金になったのはおそらくワルンのちょっと古かった揚げ物。アンバラワに着いて1週間目は、先生が歓迎の意を込めて、次々と地元の食べ物を食べさせてくれて、興味もあったし遠慮もできずで連日食べすぎていたのだ。インドネシア料理は、辛いもの、脂っこいもの、味の濃いものばかりなので、ひとつひとつは美味しいけどたくさん食べると胃が疲れてしまう。
 
倒れたことで身をもって学習したので、週明けからは遠慮したり食べ残したりするようになった。食べ物による歓迎ムードも落ち着いてきて、体調は今度こそだいぶ落ち着いた。先生たちと一緒に楽器を弾いたり歌ったりバレーボールをしたり、できないなりにお喋りをしたり、食べる以外の楽しみが増えてきた。仕事もなんとか問題なくやれている。
 
アンコットという路上バスにも少しずつ乗れるようになってきた。angkotは、大通りを走る小型バスだが、バス停がない。時刻表も路線図もなく、道で乗りたいことをアピールして捕まえる。あるいは止まっているのを見つけて乗る。乗る時に行き先を確認しないとどこへ行くのかよくわからないし、乗ったら降りる時に「ここで降ります」と伝えて車を止めてもらう必要がある。
ついついタクシーの配車アプリが便利なのでそれを使ってしまうけど、angkotを使ったほうがだいぶ安い。学校と家の間の運賃が、だいたい5分の1くらいになる。反面、システムが完全に地元の人向けなので、言葉が通じないと使えない。わたしは、まだまだ流暢に喋れるわけではないけど、一度生徒に教えてもらいながら一緒に乗って、一人でも数回乗って、家の近くの目印になるものとか、そこまでの道がどう続いているか、単語レベルででもどう伝えれば通じるのか等が分かってきたので、わかる道を走るものなら一応ひとりでもなんとか乗れるようになった。
 
雨はまだ全然降らない。先生曰く、夜中に降っているらしいのだけど全然気づけない。昼間はカラッとしていて町中の土が乾いて埃っぽいくらいだ。夕方は毎日少し強めに風があって涼しい。ちょうどこちらへ旅立つ前の、日本の9月のような、しかしそれよりもカラッとした気候がずっと続いていて、快適だ。もう10月の半ばというのが信じられない。今日なんて、プールに行って泳いだし、田んぼは青々としていたし、雲はモクモクとして陽射しは強かった。
 
 
 
 
2週間前、体調を崩した木曜日の、まだ元気だった夕方に、少し小ぶりのギターを買った。他の必要な買い物のついでに、先生にお願いをして楽器屋に連れていってもらった。日本で時々弾いているアコギは叔父さんにもらったフォークギターだけど、この日、店頭で弾いてみたらガットギターのほうがちょっと軽かったし音も好きな気がしたので、あまり迷わずにそっちを買った。ヤマハの楽器で、中にMade in Indonesiaと書いてあった。
 
家に帰ってきて、すぐベッドに座って、チューニングをした。
覚えているコードを弾いて、覚えている歌を歌ってみようと声を出して、その瞬間、ビックリした。
 
底から水面へ染みわたるような、しっとりとした響きがあった。
声がスイーっと泳ぐような心地がした。
喋る声は何度か出していたはずだけど、歌声はこの時に始めて出した。
いま始めて歌ったんだという事実もそこそこインパクトがあった。 
 
この部屋は、決して広くはないけれど天井は高く、素材が硬い。床は東南アジアのあのツルツルとした硬いタイルだ。暮らし始めてすぐで、物も少ない。そういう部屋だからだろう、日本で自分の過ごしているごちゃついた狭い部屋よりも、声がずっとよく響いた。そしてその質感がすごく良かった。大袈裟みたいだけど、ちょっと目の奥がジンとするくらい嬉しかった。
 
 
前回ここに書いたように、インドネシアへ来てから、どうも歌を歌うのが難しくて、歌えていなかったのだ。
 
自分の歌を歌おうとすると、アカペラで、歌詞があるので、どうしても歌が言葉に寄りすぎてしまって、しっくりこず、歌えないでいた。昼間は必死でインドネシア語の海の中でもがいているので、この場に対して日本語を与える、というのも、まだ腑に落ちない。
でも、体は、とにかく歌が歌いたい・声が出したいと思っていて、不満の重さですっきりしない。今は、まだ言葉が上手くいかなくてつらいから、言葉から一旦離れたところで、歌が歌いたかった。それで、とにかくギターを買ってきて、言葉というより音楽、という姿勢になって、他人の歌を歌った。そうしたら、なんてことなく楽しく歌えた。
 
そういえば日本にいた時だって、どうしていいか分からないけどとにかく声が出したい、という時はカラオケに行って半ば筋トレのように延々歌いまくったりしていた。自分が歌を作る、自分の歌を歌う、という以前に、たくさんの先人の歌に体と心を助けられてきたのを重く実感したし、かなり単純に、言葉を離れても歌があることが嬉しかった。口や体が喜ぶのがわかった。歌うのは単純に楽しい。
 
 
町に出て自分の言葉で歌う、ということについてはまだ困惑しているけど、少なくともこの部屋で歌うことはできるようになった。部屋にこもって歌う、この部屋と一緒に暮らす、ということに関しては、やっていける気持ちが湧いた。好きな響きの部屋、という点で愛せる。まだ出会って間もないこの部屋の、新たな、しかし大事な側面を知れた気がした。
 
歌うと、部屋の質感が耳や肌に届く。部屋のどこでどこへ向いて声を出すかでも響きが変わるので、自分の体と部屋との関係もわかる。家具の配置を自分の使いやすいように変えたり、生活雑貨の収納場所と方法を決めたり、棚がないのでカゴを吊るしたり、といった具体的な生活環境の構築だけではなくて、やっぱり自分には歌が必要だ。自分がどこにいるのか、自分がどんなところにいるのかを、一つの感覚器官だけではなくて、他のいくつかの器官も通して知れた時、いまここに「いる」な、と思える。その場所で声を出して、この耳と肌で聴いてわかるようなことが、わたしはやっぱり好きだし信じられると思った。
 
 
 
このあと体調をめちゃめちゃに崩したのだけど、病院から帰ってきてベッドに寝ているあいだ、家の外の音がたくさん聞こえた。耳はずっと仕事をしている。言葉はまだだいぶ怪しいけど、耳は今までと同じようにちゃんと機能している。ほとんど全身が動かないくらいしんどくても健康なパーツがあるのはシンプルに希望だった。
 
 
元気を取り戻して次の週には、学校(勤務先)の職員室で、楽器の得意な先生と一緒に日本の歌を歌ったりインドネシアの歌を歌ってもらったり、ギターを教えてもらって弾いたり、ヴィオラジャンベも加わってセッションになったりした。教室で、ちょっと歌ってよと言われて歌ったりもした。歌に歌詞はあったけれど、意味はほぼ通じていないので、実感として、あれらは全部、音や音楽だった。
 
歌唱を許された時にはその都度きっちり今できる全てを注いで歌っているので、たまに自分でもこれは!という瞬間がある。歌不足になるなんて心配は不要だった。部屋でもがんがん歌っている。買ってから毎日ギターを弾いているので久しぶりに左手の指先が硬くなってきた。ようやく生活に慣れて、歌が歌えるようになって、目下のところインドネシア語がわかりやすく課題だけれど、どうなっていくだろう。わかりやすいことのほうが多いんだから頑張れるだろう、頑張らないと。頑張ります。
 
 
 
 
 
 

まだ呼べない

 
10月2日火曜日
 
雨だ。いま、雨が降ってきた。粒が大きそうだ。
ホテルの窓を叩く音が、ポツポツというよりもぼつぼつという感じだ。
 
1週間前の月曜日にインドネシアに到着して、しばらくジャカルタに滞在したのち、今はスマランという街にいる。
もうあと数日、これから半年間住む村の部屋ではなく、この街のホテルで過ごす。
 
 
 
 
1週間経って、お金を払うのに慣れてきた。3日ほど前に改めて、両替した金額や出費した額をアプリに記録してお金を数えた。そうしたら、ようやく「この色のお札がいくらで、いくらの小銭があって、それらをインドネシア語でなんと呼ぶか」が整理されて、さっき細々とした買い物をした時には、店員さんの言った金額をちゃんと聞き取って、迷わず理解して、素早く正しく支払いができるようになっていた。嬉しい。
 
 
 
(ここまで書いたら、さっきの雨がもう止んでしまった。誰かがシャワーを浴びている音が天井の隅のほうから聞こえる。
ホテルの壁は薄い。他の部屋の誰かが話したり笑ったりする声もテレビの音も、小さく聞こえる。さっきは廊下を歩く誰かが口笛を吹いていて、短いフレーズを繰り返しながらゆっくり歩いていくものだから、まるで何かの合図をしているみたいで怖かった。自分は他人にこんな思いをさせたくないからホテルの廊下では口笛を吹かないようにしようと思った。)
 
 
 
食事にも慣れてきた。2週間目に入ったけど、まだお腹は壊していない。警戒して屋台にはまだ行っていないというのもあると思うけど、去年何度か屋台で食べて無事だったので、大丈夫のような気がする。目が痛くなるほど辛いものも一度だけ食べたけど、あえて辛いものを選んだりしなければ平気なものがほとんどだ。ただ、脂っこさと味の濃さだけは、何を食べてもついてくる。日本にいても、わたしは脂っこいものや味の濃いもの、甘いものはたくさん食べられない人間なので、自分がつらくならない量を、かなり意識して調整している。こういうことが苦じゃないので、体調管理とか好きでよかったなと思う。
 
そういう調子なので基本的に元気だけれど、唯一、おとといから喉の調子があまり良くない。腫れていて痛い。昨日が、バッドのピークだった。疲れ、空気の汚れ、ホテルの乾燥、味の濃い食事など、思い当たる要因はとてもたくさんある。でもおそらく一番大きな要因は、ここしばらく全然歌えていないことだ。自分の場合、マスクをしても喉スプレーをしても、うがい薬でうがいをしてものど飴を舐めてもとれない違和感がある時は、歌うと治る。今までにも何度かそういうことがあった。特に言葉や歌のことを気に病んだり鬱憤がたまると調子を崩すみたいで、言いたいことが言えたり歌が歌えたりすると、すっと良くなる。何度かあったので、そろそろ「本当」認定をしていいと思う。
 
 
それで、やばいなと思って、あまり乗り気じゃないまま、やっと昨晩ホテルの部屋で少し歌ってみた。ちょっと嬉しかったけどでもすぐ違う感じがしたので、散歩に出ることにした。道を歩きながら小声で歌った。
大きい声が出せるわけではないけど車の通りが多いのでその音でかき消されるし、歩道橋の上にあがればすれ違う人もほとんどないので、そこそこ自由だった。雨が降ったらもっと良いけど、まだ乾季だ。
 
しかし、いざ歩き出して歌い出してみても、全然言葉が出てこなかった。景色は見える。交通量の多い幅の広い車道をヘッドライトをつけた車やバイクがたくさん流れていたり、ガソリンスタンドやコンビニやカフェの看板があったり、歩道橋やいたるところにグラフィティがあったり、道が崩れていたり、描写されうる現実は、バッチリ目の前にある。足も健康に立って歩ける。それでも、日本語でそれを声を伴って描写することに、なんとなく違和感があった。この景色に日本語が通じる感覚がなかった。この場でわたしだけがわかる言葉を与えたところで、現実の景色さんには全然通じないんじゃないかと思った。
 
これまで日本でそんなふうに考えたことはなかった。むしろ、自分の呼びたい呼び名で、自分勝手に現実を呼ぶ、というような、そういう感覚でいた。現実はこちらから呼ばれるがまま、とまで言わないが、少なくとも現実とこちらとが噛み合わないなんて事態は想像していなかった。でも、昨晩のスマランの景色には、自分の今まで使ってきた言葉の感覚が全然しっくりこなかった。
 
今までの1週間、あらゆるインドネシア人に言葉が通じなくてしんどかったから、つい考えてしまう。きっと考えすぎだろうけど、でも、例えばここでは車はmobilだし、バイクはmotorだ。車って呼ぶのはわたしと日本人だけだ。mobil、motorじゃないと通じない。それは事実で、現実としてここにある。
 
これに関しては、3年くらい前に気づいてからずっと重要だと思っていることがあるので改めて書く。
 
わたしの生まれて育った日本は、地球でいうと北半球にある。インドネシアのジャワ島は、南半球だ。だから、ジャワ島で「北」というと、赤道・太陽のあるほうになる。日本にいて太陽が見えるのは「南」なので、地上の人間の皮膚感覚的にいうと言葉とイメージの関係がアベコベっぽくなっている。日本では北風が涼しいけれど、インドネシアでは南風が涼しく、北風が熱い。北風っていうか、「Utara」からの風が熱い。つまり、地球における方角という辞書的な意味では「北=Utara」だけれど、地上でそれぞれの人間が言葉で指そうとしているイメージが明らかに違う。
 
朝の挨拶として「おはようございます」とか「Good morning」とか「Selamat pagi」は並列されるけど、考えてみたら全部ちょっとずつ意味が違う。別の場所のそれぞれの現実に、それぞれで対応している。本当はひとつもイコールで結べない。
まあ、そんなことを言い出したら、外国語の習得ってなんなんだ?というか言葉が通じるってなんだ?!翻訳とか不可能では??という話になってしまって、それはちょっとズレてくるので置いておくけど、でも、少なくとも、昨晩の道路を走っていたのは「mobil dan motor」だったことは確かで、わたしはそれらをまだ「車とバイク」だと思ってしまう。
 
 
 
それでも、ここで生活をするからには、その実感を無視しない歌が作りたいし歌いたい。
というか生きるために必要だ、今の自分にとっては歌わないで半年も生活するのは死ぬのと同じだ。いつのまにかそんな風に思うようになった。
 
わたしは、自分の内側にあることと外側にあることを繋げたり混ぜたりできる、というのが、歌というメディアの特性の一つだと思っている。それは物理的に声が体内で発されて、内と外とで同時に震えるっていう話、と、言葉は常に現実ではなくてこちら側にあって、そこをつなぐのは言葉が音になった瞬間なのではという意味とで、二重に。
 
これが、今、日本語と異国の地、というふうに、バッサリ別れてしまっている。自分と現実とのあいだにある谷が深い。
今考えていることを外に出せていないし、外にあるものが素直に中に入ってこない。滞っている。
 
こんなふうに言葉で整理するとけっこうスッキリしているけど、解決策が全然わからないのでやばい。
 
とりあえず、音に音程や音色があることが救いだと思っていて、昨晩は、言葉が出てこないので音を聞いて真似してみたり影響されたりしながら歌っていた。まず、そういう歌から歌っていくのかもしれない。それに、案外もうちょっと時間がたてば、こんな悩みはなんでもなくなって、いつもの日本語で歌っているような気もする。まだわかりません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

祖父の愛の話


先日、一ヶ月ほどの関西滞在を終えて千葉へ帰る前に、京都市外の祖父母の家に一晩泊まった。


そこは、電車が1時間に2、3本の、まあまあの田舎だ。田んぼと家と学校と病院があって、コンビニもあるけれど大きい商業施設はない。遠くの空は全方位、ビルではなく山に落ちる。

祖父母の家は、わたしが小さい頃に建て替えている。瓦屋根の二階建てだ。和室と縁側と、でも洋間もあって、なぜかトイレが三つある。家の周りには小さい畑があって、祖父はそこで自分たちの食べる野菜を作っている。


その日わたしが最寄りの駅に着いたのは夕方の6時半過ぎだった。日はすでに暮れている。祖父に「駅についたのでタクシーを拾って行くね」と電話をかけた。小雨が降っていて、大きいトランクを持っていたし、疲れていたし、徒歩15分程度の道だけど歩きたくなかった。

しかし、タクシーが駅前にいない。10分くらい待ってから、タクシー会社の看板の電話番号にかけたけれど「今日はもう行けません」「呼ばれて駅前に行くことはできないですがもしかして行くかもしれないので待っていてもらえればあるいは…」などと言われてしまい、理屈はよくわからないがとにかく今すぐに来てくれないということだけはわかった。それからもう10分くらい、偶然に賭けて、小腹が空いたら食べようと思っていたジャガリコを鞄から出してボリボリ食べながら待ったけど、タクシーは来なかった。


ぼちぼち7時になる。タクシーが来てくれないので歩いて行くね、と改めて祖父に電話をいれた。すると祖父は「では自転車で迎えに行くのでそのまま駅で待っていろ」と言う。いやいやいや、自転車で迎えにきてもらってもトランクは大きすぎて載せられないし、雨もほとんど止んだし、道もわかるし、自動車なら助かるけど、自転車での迎えは必要ないです。

そこでわたしがけっこう強めに「迎えはいりません」と言っても祖父は譲らず、何度か「来なくていい」「いや行く」「いらない」「行く」「来ないで」「行く」を繰り返した。祖父は頑固だ。これはたぶん愛だな、と思いつつも正直ちょっとイライラしながら、わたしは歩き出すことにした。駅前のでこぼこした舗装の上でトランクを転がすと大きい音がする。イライラに見合った音量だ。たぶん病院と小学校の前を通る道で、祖父とはちあわせるはずだ。駅舎の屋根を出ると、顔に小さい雨粒が申し訳程度にピトピトあたった。


思った通り、小学校の前の道にさしかかった頃に、向こうのほうからライトが二つみえて、ゆっくり走ってくる自転車だとわかった。自転車のライトに加え、片手に懐中電灯を持っているみたいだ。祖父だ。「迷子を探している人」みたいなスタイルにちょっと笑ってしまった。わたしは手を振って「こん(↑)ばん(↓)わあー(→)」と、祖父母とのあいだだけで使う関西風のイントネーションで、声をかけた。「なんや、歩いてきたんか」といって自転車が止まった。


やっぱり祖父の自転車にわたしのトランクは載りそうもなかった。「機械が入っているから」と念を押して断り、トートバッグだけカゴに乗せてもらった。

祖父は自転車にまたがって先を少し進んで、「あっ、先に行っちゃうのか?!そういう感じ?!」とわたしが思った頃にキュッとブレーキをかけて止まった。ちょっと笑いながら「歩くか」と言って、自転車を降りて、わたしの隣を歩いてくれた。


小雨は止んで、涼しい風に変わっていた。


星の全然見えない真っ暗な空と左右の闇に囲まれて、少しの街頭が照らす道をゆっくり歩いた。

虫の声とわたしのトランクのゴウゴウいう音と、あとは祖父の押す自転車がカラカラ鳴るだけで、まだ七時なのに静かだった。はるか遠くの音も聞こえそうだ。お盆にあわせてほとんど毎年遊びに来ていた町だけど、今はこりゃあ夏じゃないなと思った。日付だって九月の一日で。


祖父は耳が遠いので、わたしはゆっくりと大きい声で喋る。もう、九月だね。涼しいね。

せやなあ、みたいな返事が聞こえたので続けて、ゆっくり、かつ、どんどん喋った。

今度、インドネシアに行くんだ。そのためにちょっと勉強してたの。

テリマカシー、やろ。

え、そうだよ!よく覚えてるね。


祖父は昔、仕事でインドネシアに滞在していたことがある。ジャカルタを拠点にジャワ島各地に調査に行ったりしていたらしい。インドネシアにいたことがあるという話は前にも聞いたけど、細かい話をしてもらったのはこの時が初めてだったし、自分が行くのもジャワ島なので、祖父もジャワ島にいたと知ってちょっと嬉しかった。


家に着いて、祖母と3人で食事をした時も、ビールを飲みながら50年前のジャワの話をたくさんしてくれた。調査で行った村には電気もガスもなかったけど灯油を使った明るいランプが庭にあったんだとか、ロウソクをつけると料理に寄ってくる虫がちょっとだけ減るからそのスキに食べるんだとか、床に落としたものに関しては3秒ルールで食べていたとか、わしは一度も腹を壊さなかった(自慢)(本当に一人称が「わし」)とか、実験器具などを大量の段ボールで持っていった話とか、ボゴールに実験のための施設があったんだとか、ソロ川はずっと濁っていたとかドリアン食べたとか。

話術に長けた話し方ではないけれど、覚えている限りのジャワ島エピソードを次々と得意げに話す姿は、孫から見ても可愛げがあって、好きだな、と思った。祖父に会うとけっこう毎回そう思う。祖父はいつもちょっと斜視なので、笑って目が細くなると顔の印象がずいぶん変わる。


一週間前に「来週、遊びに行くので一晩泊めてください」と連絡をいれた時、「いいよ、気をつけておいで」という電話口の声がなんだか優しくて嬉しかったのを思い出した。遠慮せずに来てよかった。


たくさん昔の話を聞いたら、変な言い方だけど「おじいちゃん」が、1人の人間なのがよくわかった。最近は自分の両親についても、「おかあさん」とか「おとうさん」というのは、単にわたしと彼らとの関係性における呼び名であって、この人たちは「わたしの親」以前にこの人間、という感覚が腑に落ちる。人生が各々にあります。


夕飯になると冷蔵庫から缶のアサヒビールを出してきて、何でもないのに毎度毎度乾杯をするこの人、朝になると近所の猫を餌で寄せて愛でるこの人、ウンコをしてくるぞとわざわざ報告してからトイレに行くこの人、迎えはいらないと言っても行くと言って絶対に来るこの人が、夏休みの自由研究を手伝うというか殆ど全部やってくれたことがあった、この人が、たまたま祖父で、わたしはたまたま孫だ。そして僭越ながら人間と人間でもある。


かなり前に、ことの成り行きで深い意味もなく恋人を連れていった時に、彼に対して祖父がはっきりと言った言葉が、まだ記憶に残っている。

「かわいい娘の娘が、かわいくないはずがない」と。

だから、大事な孫だから、くれぐれも大切にしてくれと、そういうようなことをかしこまって言ったのだ。わたしは、気が早いぞ!!と焦ったけど、でも、そういうことを言ってくれるこの人がおじいちゃんでよかった。その時もそう思ったし、今でもそう思う。











深夜、あったものとなかったもの


昨日の夜、家に帰れる最後の電車を、寝てもいないのにボンヤリしていたせいで乗り過ごした。
午前中から都内をあちこち移動した日だったけど、体はそれほど疲れてはおらず眠くもなかった。タクシーで千円くらいの家までの道を歩くかどうか迷う余地がある、そういう程度の疲労で、どちらかというと色んな思いや考えで頭がボンヤリしていることのほうが深刻だった。

改札を出、階段を降り、駅のロータリーに着くと、タクシー乗り場には6人くらいの列ができていた。わたしはとりあえずその最後尾にはいり、iPhoneのアプリで、ここから家まで徒歩何分なのか調べる。30分。たぶん自分の早足なら23分ほどだ。振り返ると、わたしの後ろにもすでに8人くらい、おひとり様たちの列がのびている。やっと一台到着したタクシーに、先頭の1人が乗り込み、列が進み、少し時間をおいてまたタクシーが来て、また次の人が1人で乗り込んで、というのを3回見てから、わたしは歩くことにした。


連絡の不行き届きで人を怒らせてしまった夜だった。その人にこれ以上こちらからマヌケな連絡をしないでおくためにLINEのトークは非表示にしてポケットへ、手と一緒につっこんだ。
夜道を一人で歩くときの、一番本気の早足で進む。坂道を繰り返すが曲がり角のない道だ。右手には車道と、自衛隊の演習場があり、フェンスの向こうは暗い。景色のなかに見えるものが少ない。さっきまで会っていた友人と交わしたやるせない話を思い出し、これから1週間の過ごし方を考え、5年以上先の過ごし方を妄想して、タバコの煙のにおいがして少しの時間差で、火が消え切らないままの吸い殻が舗装のこの足元に落ちていて、それを踏まずに避けてスピードを上げ、タバコの落とし主らしい人を追い抜いた。スーツを着た男性。3日くらい前に会った時に夢を語ってくれた仕事先の大人の友達が本当にかっこよかったなとか、わたしは自分が女だってことと、それなりに上手く付き合っているつもりだけど時々直面するそれを考えざるをえない状況には基本ウンザリで、あれ、こんなところにコンビニあったんだファミマ、と思ったその、200メートルくらい先には、入ったことのない、しかし見慣れたセブンがあって、さらに先のバーミヤンの交差点へ入っていく直前に、あ、この先に、閉店して解体されている最中のイトーヨーカドーがある、と頭をよぎった。けっこう前に閉店したし、そろそろ解体が始まっている頃だろうと。
そして、このまま曲がってイトーヨーカドーの跡を見たら、ちょっとグッと来ちゃうんじゃないかと思った。ショックとかノスタルジーみたいな気持ちを感じてしまうんじゃないかと、見るよりも先に、そう思った。

小さい頃、週末になると家族4人でよく出かけた場所だった。近いけど車に乗って行って、たくさん買い物をした。ポケモンのソフビを買ってもらえた時は帰りの車に乗り込むやいなや開封して遊んだ。なぜかどうしても欲しくて欲しくて泣きついて、魚のロボットのおもちゃを買ってもらったこともあった。最初のブラジャーを買ったのもここだ。初めて自分でマンガを買った本屋も、カーディガンのボタンだけ変えるのがおしゃれだと思っていて金色のボタンを買った手芸屋さんも、ローファーの踵を何度も修理した店も、ここにあった。食品売り場のカートに、一部が車のかたちをしていて小さい子供が乗れるようになっているものが導入された時には、自分はギリギリ乗れない年齢と体格で、密かに悔しかった………

あと少し歩いた先の場所では、過去の思い出のたくさん詰まった建物がきっと解体され始めている。今まで目にしてきた解体中のビルを想像の参考にしながら、そんなものを見たら素直にエモくなっちゃいそうな自分が、簡単で単純でつまらなく思えた。しかもこんなふうに先回りをして「どうせ感動しちゃうんでしょ」なんて斜に構えた姿勢もダサくてウワー、と思っていたけど歩くのをやめなかったので、すぐにヨーカドーの角にさしかかった。ヨーカドーは無かった。そこは真っ暗だった。夜空だった。工事現場で見かけるあの白い仮設の壁で地面は見えないが、どうやら建物はもう完全にない。大きなシャベルカーが黒いシルエットになって広い敷地の向こうのほうで止まっていた。ヨーカドーは想像以上に跡形もなかった。

感情の先回りに失敗したわたしは、結局、グッとくる以前で止まってしまって悲しくも寂しくもなく、ただ何もない暗い空の低いところをしばらく見ていた。


その後の家までの道は、車も人も誰も通らないし暗くて単純に怖かったので、角のヨーカドーがなくなった、と陽気なメロディーをつけて歌いながら帰った。



帰宅して玄関の鍵をあけて、うっかり電気をつけっぱなしだったので部屋が明るくて、ちょっとギョッとした。部屋は朝出た時のままだった。流しには今朝の朝ごはんの皿とコップが、わたしが置いた形で残っている。いろんなものが知っている形でちゃんとあった。生活においては、たいていの物事が、突然なくなったりはしなくて、ある。いつも保存と持続を繰り返している。片付けないと散らかっていく。

お湯を沸かして最近ハマっているハイビスカスのお茶を飲んで、皿を洗って、風呂に入ろうとてきぱき動いている時には、帰りの電車で、普段信じてもいない星座占いなんか調べて無理に勇気をもらったりしていた深刻なボンヤリは、もうなかった。




少し古い「いた」「あった」を連れて

12月4日(月)

午前中に自転車で、いつも通らない道を通った。両親の運転する車で通ることがたまにあったけど自分で自転車で通ったことは一度もないところだ。道の片側にだけケヤキが植わっていて、その先にかなり急な下り坂がある。

その並木道はしばらく平坦だ。順調にペダルをこぐ。知らない若い人が、建物の入り口でしゃがんでタバコを吸っていた。地元のある友達に背格好が似ている。その地元の友達とは、3日くらい前に教習所へいく途中でバッタリ、6年ぶりくらいに会った。すれ違いながら「なんでこんなところにいるの」「教習所」という短い会話をして別れたけど、一言目で呼ばれたあだ名が変わっていなくてちょっと嬉しかったのを、空似の他人を見て、パッと思い出した。2秒くらいその人に視線をとめて、また前方に目を戻す。自転車の速度は落とさず進む。

ケヤキの並木道は色んなところで見るけど、そのたびに、見通しの良さに加えて風通しまで良いような感じがする。他の街路樹よりもグッと背が高いし、なんか姿勢が良い。市内のもっと北のほうにもケヤキ並木があるのを思い出す。そこは、ここよりも長さも密度もあって道の両側から内側へ、枝がトンネルのように伸びていて、秋や初夏はかなり良い。先週、母の運転する車でそこを通った時、道の左手にある工場の人たちが敷地や歩道や排水溝の落ち葉を大勢で一斉に掃除していた。母は、この道は引っ越してきてすぐの頃に車で道に迷ったところだと言っていた。それ20年くらい前?やば、と笑った。わたしたちは粗大ゴミの処理とかの面倒な用事が済んだ帰り道で、機嫌が良かった。

坂に差し掛かるところで、木の枝が邪魔をして開ききらない視界ながらも、住宅地をわっと見下ろせる一瞬がある。そのあと、ほとんどひっくり返りそうな角度にスリルを感じながら舗装されたS字の道を下る。
ここを過去に車で登った時の、後部座席にいるわたしさえちょっと緊張するような、重力に勢いよく逆らっちゃう車、頼れるやつ、というあの感じを思い出しつつ、今は重力に任せて下る。ブレーキをかけながら、坂が終わった続きの道を下りの余韻、車輪の仕組みで行く。車の来ない車道の真ん中を走る。ガードレールの内側をお兄さんが2人歩いているのを追い越す。
少し行った突き当たりの建物の壁際に、コカコーラの自動販売機と、同じ色の赤いベンチと、進入禁止の標識が、ひとまとまりになっていた。ぜんぶ赤で可愛いなと思って、自転車を停めてiPhoneで写真を撮ったけど、写真にするとそんなに可愛くなかった。録り直した二枚目の「パシャー」と同時にさっきの2人に追い越された。
そのあと右へ折れて、また坂を登る。坂はこれもとても急だから、ペダルが回らなくなってしまって一度自転車を降りた。1週間くらい前の駅からの帰り道、一本向こうの通りから、ここに救急車が止まっているのが遠く見えたスポーツジムの前だった。



ここまでの2分くらいの走行が、妙に印象的だった。並木道、下り坂、住宅地、上り坂、と次々場面が変わって、ここ最近の記憶がどんどん思い出されておもしろかった。見ているものと考えていることがギリギリ分離しない。やはり自転車に乗っている時は、他の時よりも脳が遊ぶ。

自転車を駐輪場に停めて電車で都内へ出かけた。寒いのに慣れてきて、気持ちいい気温だと思えるようになってくるのがわたしにとっては毎年12月で、ここからが冬だ。
その日の午後は、池袋でかっこいい鉱物を2つ買って、夜は新宿で演劇の稽古だった。





まだ「地元」じゃない


一人暮らしをやめて実家に帰ってきて三ヶ月目だ。11月になってからはバイトしたり自動車学校に通ったりしていて、歌とか演劇とか美術とかと関係のない場所にいることが多く、変な言い方だけど「郊外に住むただの若者」という実感が強い。自覚的にそういう時期ということにして過ごしているようなところもあって、ずっとは耐えられないと思うけど悪くない感触ではある。

最近そういうふうに生活していて、わたしは自分の「地元」のことが、ぜんぜんわかっていなかった、ということがわかった。1歳の時から18歳まで住んだ場所なのに、だ。今月から自動車学校に自転車で通うようになって初めてそう思った。

自動車学校は、自分の住むマンションから自転車で20分くらい行ったところにある。電車に乗ると二駅だが、駅までの距離があったりして、自転車のほうが断然早く着ける。毎回この20分間は、車の多い道とその両側に広がる住宅街をひたすら行くことになる。たまにガソリンスタンドと、広い駐車場があるタイプのコンビニ、ファミレス、牛丼とかうどんのチェーン店があって、排気ガスのにおいがずっとしている。

その往来を繰り返しているうち、つい「こんなに何もないのか」と思ってしまった。
いや、わたしの用事が自動車学校以外にないという前提が大いにあるけど、いい景色とか楽しい坂とかもない。

わたしは大学の近くに住んでいた5年間で、自転車と徒歩による距離の感覚を、それ以前よりはけっこう身につけたつもりだ。だいたい自転車で走ってホムセンやディスカウントスーパーへ買い物に行っていたし、クロスバイクを手に入れてからは、ただ目的地もなく行けるところまで行ってみることもたびたびあった。そうして走る道からの景色は、けっこう多様だった。近所の大きい川沿いは朝も昼も夜も気持ちよかったし、学校へ行く途中にはドカンと田んぼが広がる地域があったり、それを過ぎてきつい坂を越えると墓地と畑があったり、ザ・国道と呼びたくなるような、ラーメン屋が遠くに見える殺風景な空と舗装が続くところもあった。老人が歩いていたりおばさんが自転車で通る道も、大きいトラックが何台もごうごう通る道も、部活の高校生たちがジャージで走っている道も、それぞれあった。かなり遠くまで見渡せたり、坂をがーーっと降りたり、けっこう楽しかった。
歩くことも増えたので、「20分チャリ」という距離は徒歩で50分くらい、都内のあのへんからあのへんまでだ、というふうに捉えられるようにもなった。大学の別の校舎の近くの、日暮里・千駄木・上野・秋葉原・浅草・三ノ輪・南千住あたりとか、住んでもいないけど行くことが多いので横浜の桜木町・日の出町・馬車道・関内・石川町・山手あたりの徒歩の地図が、できつつあったりもする。その身で5年ぶりに帰ってきた地元は、20分チャリに乗ってもほとんど景色が変わらない、均質な町だった。

 

自分がどういう場所に住んで育ってきたのか、最近こうして自転車で走るようになって、やっと分かり始めたような気がする。わたしが住んでいたのはこのマンションの一室でしかなくて、「地元」には住めていなかったんじゃないかとさえ思う。実際、中学から電車通学だったのもあって最寄駅が同じの「地元の友達」はほとんどいないし、このあたりで買い物をするとしたら家族と車でというのが常で、徒歩や自転車で20分もかけてどこかへ行くということはまずなかった。おかげで徒歩や自転車での地理感覚が全然ない。必要がなかったんだろう。つまり、ここは20分の徒歩や自転車では、どこにもいけない、車の町なのだ。

散々書いたけど、悪い町では全然ない。文化的にはパッとしないけど、人がただ住むには良いところだ。若い家族は、おそらくわたしが小さい頃と同じように今もたくさんいて、朝や夕方には子供をよく見る。老人ホームは増えた。いちばん馴染みのあったイトーヨーカドーは閉店したけど、ドライブスルーのマックとか、単体で店舗が建っているユニクロとか、そういうのが新しくできた。活気はそこそこある。

 

 

自動車教習所にあと2ヶ月通って無事に免許をとったら、両親が見ていた運転席からの景色を、わたしも見られるようになる。

車に乗ったら、もうちょっと印象が違ってくるはずだ。ここは車の町だから。田舎にもなりきらない中途半端な首都圏の、ちょっとした郊外・住宅街を車道から見るのは、本来ってやつかもしれない。それはあの頃に家族で住んだ「地元」に、今よりもいくらか近づくだろうか。

 

 

 

帰宅、そして帰宅

引っ越しのカウントダウンをしようとしたけど全然できないまま、なんだかんだ引っ越し終わってもう一ヶ月が経ってしまった。30日とか経つと、引っ越ししたての時とは少し違った気分になってきていて、最近はなんとなく「もとからあった」というようなことを感じている。




5年前に出て行った時から、わたしの部屋はほとんど使われていなくて、時が止まったみたいになっていた。引っ越してきてからは、それを少しずつ整理して、今の自分が使える部屋へ切り替えていく作業をしつつ、平行して今の自分の生活を進めている。それでとりあえず真っ先に思うのは、5年前以前と、5年前以後の、けっこうハッキリした分断を感じるということだ。
例えばあの頃は捨てられなかったいろんなものをどんどん捨てられるようになっていたとか、そういうこともあるし、それ以上に、駅までの少し長い道のりを、自転車で流れていく景色を、いまだに「今」として捉えられなくて、「あの頃あんな気分で歩いた」とかそういう過去をまだまだいちいち思い出してしまっているのがビシビシくる。自分の「今」がここにないみたいといったら大袈裟だけど、まだ旅っぽい感覚が終わらないでいるような気がする。よそに来て間借りしているような。
この感じは、悪くないけど、これでいいんだろうか?とは思っていて、だからやっぱり物でいっぱいになって全然使えない自分の部屋を片付けているんだけど、でも、せっかくのこの旅っぽい感じは、終わらせたくない。なるべく保ちたい。これについてはまだ困惑している。


ただ、ここ一週間くらいで、そういう間借りっぽい旅っぽいなかにも、引っ越しの分断とか時の流れる摩擦にも打ち克ってずっと自分に続いていた部分があったんだと思うようになった。今大事にしていることの一部が、もとから自分のなかにあった。それも意外なほど身近な感じで。

ずっとマンションで暮らしてきた、というそのマンションに実際にこの一ヶ月で戻ってきて生活を進めてみたら、まず「帰宅」ってすごく重要なのではという気がしてきた。
一度家を出て帰ってくるというのを日々繰り返し、主観と客観を行き来することで、ハウスがホームになっていくような気がする。9月の初め頃に友達の家を3カ所ほど転々として2週間くらい過ごしていた時に、帰宅を繰り返すと、人の家でもなんかちょっとホーム感が出てくるのがおもしろかった。一人暮らしを初めて間もない頃に少し旅行に行って、帰って来た時、あ、ここわたしの家だな、と思ったこともあった。その「帰宅」は、最近わたしに二つの気づきをくれた。

ひとつは、建物の外壁と音響的に関わるという現在の自分の興味の、原体験っぽい記憶だ。帰宅していた時に思い出した。
帰ってきて道を曲がってマンションのエントランス前へさしかかると、それまでの道にいた時と音の聞こえる感じが変わる、ということに、小学生当時のわたしは気がついて、楽しくて時々遊んでいた。「背の高い硬い建物の前で声を出したら反響する」という風に言語化してはいなかったけど、マンションの高い外壁がそびえ立っていて、洗濯物とか干してあって、時々そこから顔をだしてる知らないおばちゃんとかいるんだけど、ここで声を出すと響くから楽しい、でもやりすぎると近所迷惑だな、と遊んだり考えたりしたことが、そういえばあの頃あった。一回「あ!」とかいうぶんにはセーフ、というのもその時に初めて実証した。

もうひとつ、このマンションで、もっとよくやっていたことがある。自宅の玄関の外のすぐ横にある45センチくらいの厚めの壁に、ちょうど人の頭がひとつハマるくらいの幅の四角いスリットが、鎖骨くらいの高さから天井へ向かって細長く入っていて、向こうの景色が見える。わたしは、よくそこに頭をつっこんで、7階からの遠い景色を見ていた。帰宅した時に玄関の鍵が閉まっていると、チャイムを鳴らして、家のなかにいる母や姉が鍵を開けに玄関まで来てくれるのを待つのだけど、その少しの間の、遊び未満の行動だった。遠くをみていると眼が良くなるという噂を試していたようなところもあった。
そのスリットは、本当に頭ジャストの幅でできているから、頭をつっこむと両耳を壁で軽く塞ぐような状態になる。そうなると聞こえる音が減って、見えているものに集中できるのが気持ち良かった。風と一緒に、見えている景色へと自分が吸い込まれていくような感覚になる。ただただなんでもない住宅街が、7階の高さからの視界いっぱいに広がっているだけだけど、それでも、ガチャ、と母が鍵を開ける音が聞こえるまでの1分にもならないひと時、そうしているのが好きだった。それを小学生の頃にやりだして、中学に入っても高校を出てからもしばしばやっていて、昨日も普通に自分が同じことをクセみたいにやっていて、あれ、そういえばと思ったのだった。本来と違うけど自分にとって気に入れる家の使い方を勝手に開発していた。
(そういうのを受けて、昨日は洗面所の流しのところに脚まであげて腰掛けて歯を磨いてみたけど特におもしろくなかった。)


マンションの、隣や上下に住んでいる人のことはやっぱり全然知らない。小学校の頃の同級生が何階の何号室に住んでいるとかは知っていて、エレベーターに乗る時にその前をいつも通っているけど、彼らには全然出くわさない。
今の自分の生活は、家とそれ以外になっている。家族は東京や神奈川にいるわたしの友達にほとんど会わないし、わたしの友達だってわざわざこんな何もない郊外に遊びにきたりしない。日常の生活圏と、日中の活動圏が重なっていない。家の近くのスーパーにふらっと買い物に行って知り合いに会う、ということが、今は一切ない。生活と友達のあいだに距離がある。
郊外に住んで都内に通勤している人とかってこういう風に切り替わる感覚なのだろうか、と思ったりするし、なんとなく、生活がこっそりしてくる。ああ、これがマンションの生活だなと懐かしい反面、その懐かしい頃の友達とは今はほとんど関わっていないから、正直いって寂しさのほうが強い。やっぱりずっとこうやって暮らしていくのはつまんないし、なんならけっこうシンドイかもしれない。

一時期、単身赴任ではなくこの家から都内に通勤していた父は、家の近くに友達なんて、いたんだろうか。
いたならいいけど、あんまり見たことがない。勝手な想像だけど、いなかったんだったら、こんな感覚だったんだろうか。けっこう寂しいっていうか、ここは父にとって、本当にただ帰ってくるためだけの家と町だったのかもしれない。聞いてないのでわかんないけど。

でもそのぶん、こんな場所では、家族がとても愛しいものになるのかもしれないということは、僭越ながらちょっぴりわかったような気が少し、した。
何度帰宅を繰り返しても大抵の時ちゃんと家にいる人たち、友達の言葉を借りると、確かにちょっと、好いている猫みたいだ。